ちろる

キネマの神様のちろるのレビュー・感想・評価

キネマの神様(2021年製作の映画)
3.6
原田マハの小説を、松竹映画100周年を記念し山田洋次監督によって製作された本作。
オリジナル脚本ではないのだが、山田監督が構成したであろう情熱が作品の至る所にちりばめられていた。

まず、いまは酒飲みギャンブル好きのダメ男である主人公が若いころ目指していたのは松竹撮影所の監督。 
彼が助監督を務める出水監督はまさに山田洋次監督が尊敬する小津監督がモデルになっている。
そんな名監督の助監督として働くゴウに自分を重ねて山田洋次監督は自分が経験できなかった時代の撮影所を楽しんでいたに違いない。

私もまた邦画は、40年代から60年代にかけてのものがたまらなく好きで、この映画が最大の娯楽として人々に愛され、多くの国民の夢や希望を一身に背負っていた時代のエネルギーが羨ましくて仕方ない。
この時代を舞台にした本作にノスタルジックな気持ちにさせられいつまでもこの世界に居たいと思った。
そういう想いが強すぎたせいなのか、正直、過去パートが早足すぎるのでは?と不満に思ってしまった。
なぜにゴウはあんな些細な事で、大好きな映画を諦めてしまったのか?理解ができない。
せっかく、自ら書いた脚本で映画「キネマの神様」の監督に抜擢されたのに、あまりにも浅はかである。
松竹を支え続けた山田監督はこのダメ人間ゴウに何を思ったのだろうか?とても気になってしまう。

因みにこの映画「キネマの神様」、多くの映画ファンなら気付く通り、「カイロの紫のバラ」に激似なのは黙っては居られない。
そんなハリウッド映画は存在しなかったのごとく、現代パートへと続くのはあの映画が好きな人間としては無視はできない。
私の大好きなあの時代を、リアリティを持って描くことの出来る山田洋次監督ならではの力で、なぜにもっとオリジナリティ溢れる脚本で仕上げてくれなかったのか?そこは一抹の疑問が残ってしまう。

また、この作品を語るにおいて避けて通れないのは、志村けんさん急逝による主役の交代劇。
ジュリーこと、沢田研二さんは志村けんさんの友人として、この役を請け負うことに決めたわけで、志村けんさん用に作られた脚本を演じる事に大きな葛藤があっただろうと思う。
そんな中、ダメ人間のまま大人になった『沢田研二さんのゴウ』を短期間で、作り上げたのだという事に関してはとても尊敬するし、拍手をしたい。
だがしかし、それと同時にやはりもしゴウを志村けんさんならどう演じたのかが気になってしまう。
もしかしたら、志村けんさんだったら、所々もっとコミカルで、憎めないゴウであったのかな?
そう思ったらやはり憎きコロナによって命が奪われたことが残念で残念で仕方がない。

そして何よりも気になったのが、このコロナ禍を山田洋次監督は避けて通れなくなったのだろう、物語は【コロナのある世界線】へと姿を変え、家族愛に向かうはずの物語がミニシアター存続の危機というテーマを齧ってしまったがために、描きたいことが渋滞気味になってしまったのは少し残念であった。

もっと、もっとゴウと淑子の時代を超えた夫婦愛、そして親から子へとつながる愛の軌跡を見せられるのばかり思っていたのに、ゴウから淑子へあるのは深い謝罪の念だけ、そんなんならやっぱり淑子はテラシンとくっついていた方が良かったのではないか?と、この映画を観て多くの人が思うはずである。

ラスト、映画館の虚の中で桂園子が笑顔で登場する。
その瞬間のゴウの感じる幸せに淑子は居ない。
そんな、ラストのラストまで虚しいくらいの片想いの一方通行が、切なくて仕方なくなるのは私だけでしょうか?
正直ひっちゃかめっちゃかになってしまった脚本には★3でも、やはりこびりつくように残る、監督の映画に対する愛が愛嬌となって残るので、★は高めにつけてみました。
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