ニューランド

千代田城炎上のニューランドのレビュー・感想・評価

千代田城炎上(1959年製作の映画)
3.5
依田義賢は、日本映画史上最大の脚本家のひとりであり、溝口健二と一心同体にも見える、いやそれ以上の切磋琢磨の業績でまず知られているが、それと同等の幾つかのコラボも、極めてアヴェレージの高い·流した作品のない膨大な作品群(『悪名』シリーズは、じつはあまり観てないが、どんなシリーズよりも背骨が通ってる)の中でも、屹立してある。個人的には、内田吐夢、山本薩夫、熊井啓らとの仕事の、力業と解放への手応えを見る事が出来る。封建的な社会を対象·素材とする事が多いが、それに染まり切らない、個人の自立と解放、近代的な視野というには正統なこじつけ·くっつけから無縁の、無意識·無垢の人の心の核が場を捉え込み譲らず、中心に呼吸してくる。
本作の舞台も、天明年間というから18世紀後半か、江戸城内、政治·軍事の役向きの「表」の男社会と背を接し、互いに利用や影響を与え合う「大奥」に、実家商家の継母の思惑で、年季明けのない生涯お勤めに、はめられた娘を主人公とする。大奥内の厳然とした上下関係と閉鎖性、そこから生まれる新参への陰湿な虐め·見ぬ振り·嫉妬らの、個人への集中、その中の権力の牽制·窺いの綱引きは、後の東映やらTVの「大奥」を思わすが、それらに足を掬われそうに見えて、フィクションの痛快さで、考えられない短期出世の活力がそれを破壊してゆく。表に出る事のない支え·蔑まれる底辺から、「御前」(将軍正妻)に最も重視の「年寄」までの出世。持ち前の負けず嫌い·初志貫徹の行動力、臨機応変·時に破天荒な反応と実行、当初対立者へも当人の行く末を見透し·我が身と変わらず大事にする姿勢、元の出自を大事にする·を超えて賄賂や不正への怒り、例え望むのが「上様」(将軍)でも恋慕う相手てなくば·死も厭わず断り、で(元)同僚·(元)上司·そして「表」からの「大奥」査定指導役(「表」の経済事情から改革)、信頼·評価以上の、尊敬·愛情に近いもの、まで得てく。ラストでは半ば聖人化し、且つ齟齬·苦渋も、人間的を離れず抱えてる。
しかし、それら生き方·モラルの葛藤の面白さより、惹かれるのは、恩もある同僚からの·恋の成就協力を依頼された時、その相手への及び腰仲立ちが·実に自分の(秘めた)相愛の本命ゆえの半端さ、に細かく敏感に見え隠れする、息づく鋭い狡猾さの、より暗躍への秘めた怖さの確実な伝わりであり、これこそ新珠の、他会社から招かれても怯まず主演を当たり前に力みなく果たせる、外見からは想像できぬベースの凄みである。しかし、これを依田の本は、メインに置くまでに至らぬ。嘗て、芸能レポーターのウエイトが大きかった頃の、竹中労が、素顔の新珠の自分勝手な行動·不可解なトゲのある傲慢さ、不遜ぶりをさんざん書き立てた事があったが、(天下の?)竹中に怯んだ様子もなかった。それがこっちも嫌みなく、より素晴らしいものと納得できる気品·生の力の持主であった新珠三千代という女優。
溝口在籍の頃から当たり前となったのか、大映時代劇の、セット美術·照明·衣装の確かさ·風格の深い味わい、和楽器·ナレーション導き、角度の90°やどんでん·切返しや縦図·俯瞰図·力強く着実な移動らの·組立と対処は、流石で安心·溜飲を下げられる、演技·キャラ色付け·群衆や炎の掛け値ない扱い·盛り上げ運び·への演出も含め、流石だか、やはり新珠の、此方を刺されて心地いい、清楚·潔癖を崩さず·毒の側へ引摺り込む·生来の狡く艶やかな、固有の鋭さを、惜しいが·引き出しきってはいない。
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