藻類デスモデスムス属

佐々木、イン、マイマインの藻類デスモデスムス属のレビュー・感想・評価

佐々木、イン、マイマイン(2020年製作の映画)
4.5
ペンシル骨
 

レントゲン写真を見せられ、ここがペンシル骨だと説明された。ここです、見えますか、ここが一本多いでしょう。見なくても分かる。じっと座っていると、あたっている感じがした。痛くはないが、落ち着かない。その骨は、動いてはじめて体になじむ感じがした。あるべきところにあるのだと。その骨があるおかげで、わたしは短距離走を何秒か人より速く走れた。勢いがつき、しばしば可動域をはみだしそうになっては、引き戻された。
 
高校を出ると上京し、そのまま就職した。そうした変化の中で、わたしはただ座っていることにも慣れていった。ほんとのところを見せないようになり、自分を小さく評価するようになった。ペンシル骨は絶えず要求していたが、はるかに大きく冗長なものの中で、皮膚は厚く、心は鈍くなった。忘れるように努め、ほとんどの時間でそれに成功した。その平凡さは、乗っていれば運んでくれる自動運転の乗り物のようだった。やはり退屈ではあったが、肺を刺すような痛みも、筋肉がちぎれるような痛みもない。どこかに着けばいいと思った。どこでもいいと思った。
 
しかし、どうも路面がよくない。がたこと揺れ、尻が痛い。サスペンションがだめになってしまったようだ。それともシートの下に、ペンシル骨でもあるのだろうか。そっちが気づかないふりをするならこっちにも考えがある。とでもいうように、移動したのだろうか。苦労して届かなくしたものを届けようとする、執拗なノックを、余計なお世話だと撥ねつける。しかし、その呼び出しは、徐々に大きく、速くなっていく。とうとう耐えきれず、車を降りた。霞がかる朝に、まだ先の季節が白い煙をあげている。まだ聞こえる。ずっと聞こえていた。
 
(いやいやだめだ、走れはしない。車と同じだけ年季が入り、もう肉はなくなってしまったよ。花も咲かなければ、実もつかない。まるで硬くなった冬の木の皮のようである、金の秋の大きな落ち葉のようである。/なにをいっている。あるだろう、骨が。骨を使って走ればいい。)
 
足元をみる。下駄だ。どこかの旅館で履いたまま出てきてしまった。こんなもので、ろくに走れるわけがない。しかしこれは尋常じゃない、骸骨のランだ。骸骨がスポーツシューズを履いているのもおかしい。下駄が脱げないように走る様は、尋常じゃない。カラッ、カラッと変なリズムを立て、近所迷惑に違いない。まるでひとりの祭り、お囃子だ。誰のためでもない。誰にも読めないような、みにくい走り書きをした。「なれよ」と言ったお前の目だ。骨格を映すのは。