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ローマ11時のkiyonagaのレビュー・感想・評価

ローマ11時(1952年製作の映画)
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美しい女優。貧困の卑しさがない。格差は隠せるということか、女性を主題に社会を描くネオリアリズモの限界か。いや、この傑作を失業や貧困をテーマとした時代的作品として決めつけるのは安易だ。

彼女達のタイピストへの動機は何か?裕福な階級とは言えないが、家族や恋人に愛され、生活の危機に追い込まれている孤独で絶望的な描写は少ない。今日明日の生活を凌ぐため、という単純な動機ではないようだ。

彼女達の事故後の生活では、異なる環境に挑戦する人、新たな出会いを迎える人、今までの自分と向き合おうとする人と、タイプライターという職業に執着している人は少ない。やはり失業や格差だけがこの作品のテーマではない。
彼女たちには共通点がある。それは“現在“から何かしらの形で逃れようとしているということだ。つまり彼女たちは、就職という名の経済的自立を担保に、いま置かれている境遇から距離を取るための手段として仕事を求めている。

そうすると、卑しさとはほど遠い美しい女優達を通して、ジュゼッペ・デ・サンティスは何を描きたかったのか?彼女達が逃れたい”現在”の正体とは?
それは、「女性は美しければ良い」という男性中心の価値観が生む閉塞感だ。その価値観に虐げられ、耐え抜いてきた彼女達が、仕事を通して自らで自由を掴み取ろうとしている。にも関わらず、まさしく階段の崩落を通して、それに応え切れていない様々な時代的、社会的な拘束を提起しているのではないか。
女性の魅力で男性を惑わし続ける娼婦の求職者は、状況が何も変わらない”現在”の犠牲者の一人として描かれている。
そして、もう一人の犠牲者は、最初と最後のシーンを結ぶ女の子である。タイピストへの就職は、必ずしも大きな枠組みとしての”現在”からの脱却を意味しない。タイピストへの階段は崩落するわけで、全員がタイピストを目指す時、全員が救われないのだ。その構造について何も省みず、入り口で待ち続ける女の子の盲目さが、恐らくこれからも”現在”が世の中を取り巻き続けるであろう暗澹たる未来を示唆している。

現代を生きる私たちは何を思うか。サンティスが提起した問題に対して果たしてどこまで応え切れているのか。
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