ちゅう

なぜ君は総理大臣になれないのかのちゅうのレビュー・感想・評価

4.6
”政治家に向いていない政治家”、衆議院議員・小川淳也の17年にも渡るドキュメンタリー。
四国にある普通の家庭に生まれ、東大、総務省官僚とエリート街道を歩んでいた彼が”政治家になりたいんじゃなく、政治家にならなきゃいけない”という義務感から衆議院議員に立候補してからの17年。
高い理想を掲げた彼の、どうにもならない苦悩とともにこのドキュメンタリーも進んでいく。


僕は彼のように行動できているわけではないけれど、彼の苦悩はわかりすぎるぐらいわかって胸が痛くなった。
まっとうな考えを持ってそれを主張しているのに全然通らず、社会が予想していた通りの悪い方向へ流れて行ってしまうという無力感が、観ている僕の身体にもどっとのしかかってくる。
それでも、その苦悩・無力感がいくら彼の気力を奪おうとしても、この国を立て直したいという強い想いが彼を動かしていく。

僕はドキュメンタリーをそこまで観ないから、この映画がドキュメンタリーとしてどれだけ優れているのかを評価するのが難しい。
でも、そんなことはどうでも良いくらいスクリーンから彼の情熱が溢れ出て迸(ほとばし)っていて、僕はそれに感染した。


”1か0かみたいに見えるけど、いつも物事は51対49で決まっていて、僕たちの仕事はその49をどれだけ背負えるかなんです”
彼が車での移動中に語った言葉なのだけど、これだけで他の多くの政治家よりまともだと判断するのに僕には十分だった。
正直に言えば、上記の言葉は民主主義が多数決を取る際に留意するもっとも基礎的な考えであって、当たり前のことしか言っていない。
民主主義は多様性を擁護する政治体制なのだから49を背負って51で決まったことをやっていくなんて政治を生業とするなら行動原則の第一であってもおかしくない。
けれど、上記のセリフに続けて彼が言うように”今のほとんどの政治家は51の方しか向いていない”のだ。

イデオロギー的な合う合わないは当然あるだろう。
けれど、イデオロギー的な差異を超えて彼はまともだと思う。
間違ったことを言ってしまうこともあるし、間違った判断で行動をしてしまうこともあるけれど、批判をきちんと受け止めて反省するべき点はちゃんと反省して次に活かすからだ。
ほんのちっちゃな批判でもそれを意に介さず、その批判をした人や媒体に圧力をかける政治家よりもずっとまともだと思いませんか?
こんなことイデオロギーの差でも右左の差でもなんでもないだろう、その差であってたまるか、と思ってしまう僕のほうがおかしいのだろうか?
まあ、民主主義を否定して独裁を志向するイデオロギーの持ち主ならば僕のほうがおかしいと思うのだろうけど。


党利党益に貢献した政治家や、表層的な政治手腕(選挙に勝つためや政治家として出世するための、実を問わない空疎なスキル)がある政治家が存在感を発揮する中で、そういうことに興味のない彼はなかなか存在感を持てず、思うように社会を動かせないことがたびたび語られる。
今日の政治にとってそういったものは必要なんだから、それに興味がないというのはナイーブ過ぎると思われるかもしれないし、もっと言えば負け惜しみに聞こえるかもしれない。
それでも、人間の能力が有限なことを極端に敷衍させてもらえるならば、党利党益や表面的な政治手腕にしか興味がない人と社会を良くすることにしか興味のない人だったら、後者に政治家をお願いしたいと僕は考える。
社会を良くすることにしか興味がない人が政治をまともにできないんだったら、その政治システムってどこかがおかしいと僕は思う。

また、彼と同じくらい彼の家族が選挙のために自分を犠牲にしなければならないシーンがたびたび映される。
これほど献身的に家族が選挙に協力しなければならないのは選挙システムの歪みだと思う。
地盤・看板・鞄を持つ政治家に有利過ぎるシステムだからで、その不利を跳ね返すにはどんなことでもしなければならないのだ。
彼の妻と娘が健気すぎて惚れてしまいそうになった。


まともな考えを持っている人が政治家に向いていないってどういうことなんだという、知ってはいるけれど納得することができない疑問が心の奥底から浮上して頭の上を旋回している。
彼の苦悩はイデオロギー云々以前のこの社会の歪みがもたらしているし、その歪みはきっとあなたにも苦悩をもたらしていると思う、あなたがまともであればあるほど。
彼のことを政治家として支持するかどうかなんてこの映画にとっては問題ではなくて、彼が政治家であるがゆえにわかりやすく浮き彫りになるこの社会の病巣が、政治家ではない僕たちの苦悩の原因でもあることをあらためて訴えているように、僕には思われてならなかった。
ちゅう

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