君は永遠にそいつらより若い
その言葉でじゅうぶんだと思う。
手が届いて欲しいところにちゃんと届いていく、とても丁寧で繊細な映画だった。
テーマとして語られることから、踏み間違えると危うい作品になったと思うが、しっかりとそれぞれに寄り添っていて、さらに誰かと関わりながら生きていく上での大切なことが描かれていたのが印象的。
自分の中にある大きなコンプレックスや本当に大切にしているけど自信のない思い…それは誰にでも話せるわけではない。
だからこそ、そういうのをちゃんと受け止められる人って素晴らしいと思うし、そういう人の存在はその人にとってはやっぱり尊い。
誰かの人生の中にあるあらゆることは、自分の存在なくしても進んでいって、それがなんだか無性に切ないと感じるときがある。
でも誰かにとってはそうじゃないかもしれないと思えたとき、生きることに対して少しだけ前向きになれて、お互いに心が軽くなるというのを作品を通して実感できる。
普通の人が普通に気づけることが気づけないと言ってるのは、実は普通に気づけるようなことではなくて、それは事実からなるコンプレックスがそう思わせてるんじゃないか。
そういうことを思えるだけで、もうそれって素晴らしいんじゃないか。
逆に普通という感覚が、気づけたかもしれないことを、気づけなくさせているんじゃないか。
その人が隠そうとしていることに気づけるのは、察するとかその人のことを本当によく考えてもやっぱり限界があって、おそらくそういうことでも話せる関係になれるかどうかなんだと思う。
そこに至るまでには、確かに踏み間違えてしまうことがあるかもしれない。
ふとしたことの認識のズレで、相手の入って欲しくない領域に土足で踏み込んで、無意識(無自覚)に相手を傷つけてしまうこともあるかもしれない。
でもそういうのがあったことに対して、意識的になれるかどうかが大切なんだと思った。
話が進んでいくことでわかる普通じゃないと感じている人にだけ、気づけるものがあるということ。
そういう人だからこそできることや心を通わせられる人がいるということ。
それが実は誰かにとっては、何よりも大切なかけがえのない存在になるということ。
自分に欠陥があると感じているから、同じような人たちの気持ちがわかったり、同じような感覚をわかち合えるというのは、それだけではないかもしれないけどやっぱりあるんだと思う。
ホリガイにとって、児童福祉職は天職だと思った。
そういう些細な変化や違和感に気づけてそれを放っておけないところや相手との関わり方に意識的になれるというところからそう感じた。
それはさまざまな出会いや人との関わり方に対しての意識における成長もあったけど、ホリガイの根底にある優しさでもあり、それは彼女がコンプレックスとして抱えていたものがあったからこそ活かせられてる気がする。
冒頭で出てきたホリガイを煽ってた人の言葉を思い出すと、その人こそ何もわかっていないんだと思ってしまった。
ああいう関わり方があってしまうからこそ、人はだんだん生きづらくなるんじゃないかと。
やっぱり何かを理解するということは、想像を絶するほどに難しいことで、簡単にこれって断定ができないものも多い。
「その言葉でしゅうぶんだと思う」
これはあのシーンだけじゃなくて、それ以外のホリガイの言葉からもそう感じられるシーンも多かった。
わからなくてもわかろうとすること、その人のためを思っての言葉だったら、そういう想いが根底にあったら、確かにそれだけでじゅうぶんだと思った。
相手はだんだんと心を開いてくれるはずで、察するのではなく話し合うことで、その人のことをもっと深く知れるようになるのだろう。
そういうのこそが素敵なんだなと、尊いんだなと感じた。
普通ではないところにどれだけ手を伸ばしていけるか。
一括りにできない言動や気持ちにどれだけ寄り添っていけるか。
無意識的になりがちなことに対して、いかに意識的になれるかが大切であるのを、この映画は示唆しているようであった。
自分はどれだけのことに対して、ここまで悩んで考えることができるだろう、優しく寄り添っていけるだろう。
鍋をつつき合える仲って本当に凄くよいですよね!