古川智教

涙の塩の古川智教のネタバレレビュー・内容・結末

涙の塩(2020年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

フィリップ・ガレルにおける節約とは何か。色彩の節約によるモノクローム、製作費の節約による物語の簡素化と省略、演出と演技を抑制する節約による顔の仕草とその存在、はもちろんのこと、「涙の塩」においては別離でさえもが節約される。正確に言えば、別離そのものが節約の別名となるまでに限りなく接近していく。ジャミラとの約束を反故にしての別れ、ジュヌヴィエーヴの妊娠と流産を放置しての別れ、そして最後は父との別れを告げる機会もない死別という永遠の別れ、それらはすべて映画において節約されたがゆえにいなくなるもののことである。おそるべき手作業であり、まさにリュックと父親が棺を作るようなことが映画制作において行われている。喪に服しているのではなく、喪に服すための知られざる準備作業のようだ。如何にシンプルなストーリーに見えようとも、カリエールが脚本を書いている以上は人を困惑させる仕掛けが施されているだろう。 「涙の塩」とは、涙が乾き=節約された上で結晶化するもののことだ。一体、それほどまでの節約により何が現れ出るのか。もちろん、映画そのものである。そもそも映画自体が世界を、現実を、人生を、存在を、節約しなければ成立し得ないではないか。映画そのものとは、別離の別名であり、節約の別名なのだ。映画そのものとは、映画以前の何か、例えば世界であり、現実であり、人生であり、存在であるものが乾き=節約されて現出する塩のことである。
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