くまちゃん

東京リベンジャーズのくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

東京リベンジャーズ(2021年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

今作を大きく牽引しているのは人気キャラクター「ドラケン」とドラケンを演じる「山田裕貴」、その掛け算された限定的な魅力にほかならない。
原作やアニメ版で得られる好奇心やエクスタシーを悉く刈り取ってしまっている。

「東京卍リベンジャーズ」はタイムリープという流行的なSFとヤンキーという使い古されたストックキャラクターによるアクションで成り立っている。だがそれはあくまで大まかなストーリーラインに限る。演出やプロットはサスペンスが散りばめられ、多くの謎が次から次へと押し寄せる。青春謳歌場面の一つとっても必ず花垣武道の精神性とその後の行動に影響を与える。無駄がない。

はてして実写映画という選択は正しかったのか?

喧嘩賭博でキヨマサに挑むタケミチ。
元々ここでは「さよならドラえもん」ののび太の如く、ジャイアントキリングとはいかないまでも、ボロボロになりながら食らいついていた。
が、今作ではボロボロになりながら立ってるだけで立ち向かってはいない。
立ってるのと立ち向かうのは違う。
本来であれば立ってるだけでもやっとの状態でかっこ悪く血反吐吐きながら立ち向かうからかっこいいのだ。だからこそマイキーもドラケンもタケミチを気に入ったのだ。譲れないものがある。その覚悟を汲み取ったから。
今作でそれは感じられない。マイキー、ドラケンの登場もご都合主義感が強まっている。

タケミチはマイキーとドラケンを尾行する。行き先は病院。林田の親友と彼女が「愛美愛主」のメンバーに暴行されたため見舞いにやってきたのだ。
彼女の両親は激昂し二人を罵倒するがドラケンは自身とマイキーの頭を下げる。
下げる頭はなくても人を思う心を持て。
そうマイキーを諭すドラケン。
二人の関係性を象徴する場面。
ここは過去に戻ったタケミチが何故か病院へ駆けつけ二人を見つけるという不思議な展開により台無しになっている。
そもそもバイクで移動している二人に追いつけるはずがない。

8・3抗争
ドラケンはキヨマサに刺される。
原作ではドラケンがこの日に死亡することを知っているタケミチが必死にドラケンを探す。相手はキヨマサだろう。ドラケンを殺すと息巻いていたのだから。
たが、ドラケンもキヨマサも見当たらない。ここで視聴者は不安と焦燥を覚える。どうせ絶妙なタイミングでドラケンが救われるのだろうと高を括りながらも内心ヒヤヒヤしている。
激化する抗争のさなか、タケミチは目撃する。血の滴るドスを握りしめ「やってやったぜ」と呪詛の呟きを繰り返すキヨマサを。
その奥には血を流しながら白目向いて倒れるドラケンの姿。
刺される場面をあえて見せず、危機を感じながらも当事者達をみつけられない、タケミチ目線とすることで観るものを没入させる。これが優れたサスペンスだ。
仮に刺される場面を描いたとしても、演出次第ではアクションとしての興奮は得られるだろう。
しかし今作では、ドラケンが刺される場面を遠目に目撃というタケミチ目線でありながら非常に地味な場面になっている。ドラケンの死を止めることができないかもしれない。そんな絶望は微塵も感じられない。
安っぽい2時間ドラマ感すら漂っている。

マイキーは低身長かつ童顔の中学生だ。
今作は高校生まで設定年齢が引き上げられてはいるが、吉沢亮と原作ビジュアルの間に大きな乖離があるのは必然であり、致し方がなかろう。
子供を配役しては本人に危険なアクションをやらせるわけにもいかず、スタントダブルをつけるのも困難。むしろ吉沢亮の働きにはよくやったと賛辞を送りたい。

千堂敦を演じた磯村勇斗は山田裕貴に次いでマッチしていた。赤髪リーゼントのあっくんは、かなりの美形なのだ。

根本的にこれは北村匠海で合っていたのだろうか?本来のタケミチはダサくかっこ悪く喧嘩が弱く、しょうもない。
血と泥にまみれ、涙と鼻水を垂れ流し、みっともないながらも自分の曲げられない芯を貫徹する。その生き様が、魂の叫びが格好いいのだ。北村匠海のように格好いい人間は何をやっても格好いい。
本来タケミチが持っているかっこよさとはまるで異なる。
北村匠海が良くないわけではない。花垣武道ではない。ただそれだけだ。
どちらかというと仲野太賀のほうが合っていた気がしないでもない。

モノローグや自分語り、状況説明ゼリフなど、漫画の実写として陥りがちなシナリオの穴は多くある。それがあまり気にならないほど演出や展開が雑で、悪い意味での相乗効果が一つ一つのマイナスポイントをフラットに引き伸ばしている。
原作やアニメを見てしまうと、それは顕著に感じられるだろう。
くまちゃん

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