せいか

マイ・ニューヨーク・ダイアリーのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

09/30、AmazonPrimeにて視聴。字幕版。
本作は、ハプワースを本として出版するかしないかみたいなときの辺りのことを主人公の視点から描くものでもあって、当時の背景がちょっと伺えるのは面白かった。
自分がどうしたいのか、自分がすべきは何であるのかをきちんと理解し、考えて立ち回ることを逆説的に考えさせられることになる作品だった。
主人公はずっと好かんタイプの人間として描かれていたので、頭の中で延々雑巾絞りしていた。無理過ぎるからか単に体調不良か、観ていて吐き気を抱えることになった。

本作の原作は主人公であるジョアンナがサリンジャーの死から数年後にあたる2014年に書いた自叙伝または回顧録とでもいえる『サリンジャーと過ごした日々』。未読。つまり半分(またはそれよりもう少し高めに)ノンフィクションといった作品だといえる。
冒頭で主人公の独白があって、平凡になりたくなかった、特別になりたかった、作家として売れたいと思った云々という、それこそ言ってしまえば「平凡」でゴール設定がなかなかあれな発言があるのだけれど、結果として、サリンジャーという圧倒的非凡な作家ありきで彼に寄りかかった随筆文的なものを、しかもその死後数年後の旬を見定めきった一種の暴露本的な立ち位置のものを書くことで瞬間的にそれを果たしてるのが皮肉だなあと、開始早々に思わされた(現実のジョアンナ自身を否定するわけではないが)。凡人ができることは何かとなると、たまたま関われることになった才能に寄生することなんだなあというか。そうでなければ特別になれなかった人の話なんだなあというか。
もちろん、私はサリンジャーの作品が好きなので、それもあって作家本人を知りたく思ったらこういう関係者の書く文章が幾らかは参考になるだろうからありがたくは思うのだけれども(もちろん、あくまで彼女の視点から、発表するものとして体裁も整え、さらに商業的文脈としても整えられたものになっているだろうという前提は留意することではあるけれど)。
ニューヨークに遊びに来ただけのつもりだった彼女は気まぐれに、文学を研究するよりもここで安アパートの一室でも借りて小説家として研鑽したい!と突発的に一念発起するのだけれども、そういう、文化の中心に身を置くこと、より出版社と繋がりやすくしておくことみたいなのは基本ではあるし、あらゆる作家が経てきた道だろうとも思うけれど、同時にこの道はあらゆる凡人たちも辿ってきた道で、ミーハー心とは隣接している感じもあって、なかなか、初手からうへーっと思わされもした。
つまり開始早々から主人公が観ててしんどかったのだなあ。
本作、自叙伝ではあるけど、少なくとも映画を観る限りは物語として語り直され作られている雰囲気は十分に感じるもので、まあそうなるのは避けられないのだろうけれど、ちょこちょこ、おれは何を観てるんだろうなという気持ちにはなる。サリンジャーを餌にしたある女性の自分語りを観させられてるわけだけども。

補足すると、本作の主な時代設定は90年代だから、日本でも(今でもやや)そうであるように、あらゆるジャンルの作家やそれに類する人たちは都会に居なければほとんどそれで活動することは不可能だったというのはやはりこれも留意しつつ上記のことを書いてもいるのだけれども。

主人公は老舗の出版エージェンシーに(少なくとも映画で観る限りでは)トントン拍子で就職し、作家志望というところは疎んじられるけれど(そりやそうである)、現代作家であるサリンジャーの担当としてすぐに割り振られ、そのファンレターの処理などをすることになる。サリンジャー自身はあらゆるファンレターや団体からの申し出の類を無視しているため、エージェントがそれぞれ雛形に則った文をコピペして返さなくてはならないのである。本作時点では、本編でも触れられているように、ちょうどパソコンがビジネス社会に広まっていく最中であるので、まだワープロなども健在で、このエージェンシーはパソコンの導入すらまず考えてはいないし(話が進行する中で取り敢えず一台とかのくだりはあるが)、手紙も紙で来る。返事もつまり紙で返すので、コピペと言っても楽ではないのだ。しかもサリンジャーとなるとその手紙の量もなかなかのものがある。
……と、ここでやや主人公には同情することになるのだけれど、多分、会社の規定にそういうのがないからなんだろうけど、早速自分が担当しているのがサリンジャーだと所属している作家(?)サークルにバラすわ、ファンレターは持ち出して、そのサークルに所属している自称作家の彼氏と回し読みしだすわで、だいぶ、こいつ……という感じになる。

自分と同じ今を生きている現代作家に対する興味が薄いというのは私自身そこだけ抜き取れば似たような傾向にあるので分かるけれど、彼女の場合、思い込みで一切の歩み寄りをしなさすぎるし、この期に及んで担当作家であるサリンジャーの作品もすぐに読もうとはしない謎の意固地さも見せる。自分もその現代作家になりたいと思っていることへの意識がないのだ(たぶん、自叙伝書いてる時点ではそうした自分を批判的に捉えた上で書いてるんだろうけれど)。彼女が実際に読む気になるのも、電話でサリンジャーと話し、彼が数十年ぶりに出版する気になってにわかに忙しくなり出してから。しかも実際に読み出すのは、作品としての誇張もあるだろうけれど、本編で言えば人生の辛酸を感じてしんみりしだしたラスト付近になってからなのだ。
ただ、現代作家以外となるといろんな作家の作品を語れるほどに渡り歩いているらしいことは伺えるので、そこは素直に感心したし、尊敬はする。現代作家も全く読まないわけではなくて、レイチェル・カスクの本についても(目の前にいるのが作家本人とは知らずに)語ったりもする。
とはいえ、つまるところ、最初からずっと主人公に好感が持てないので、なんだこいつ、なんだこいつ!って感じになる。念のために言っておくと、登場人物に共感できない作品はクソという話をしているわけではない。
ある種、エージェントとしてかなり直接的に仕えながら、作品そのものは遠ざけて、ファンの声や職場の声、そして作家自身の声を味わってからやっと作品そのものにも手を出すという、なんか本作上ではそれがある種、一つの作品を楽しむような感じに見えるというか。もちろん、通常の「作品を楽しむ」過程を逆流してはいるのだけれど。そういうもんかなーと思うところもあるけれど、なんだかなーとはやはりここも主人公に対して思いはする。

ファンレターに一応目を通しては定型文を返し、ファンレターはそのままシュレッダーへという作業に戸惑いを覚えるのは確かにわかる。あらゆる人が作家に対して直接伝えたい作品への思い入れの語りは一つの自叙伝にも等しく、深みがあるものが少なくないのだろう。それをただ介在している人間が目を通して、しかもその思いの形を冷たく突き放しては形すら残らないようにするのだから、仕事にしても虚しさはある。同時に、そういうファンの反応だとかの一切に触れたくない作家というのも分かるのだけれど。
主人公は仕事としてではあるけれど、上記したようにある種の文学としてサリンジャー宛のファンレターを盗み読み、きっとある種の癒やしをそこから得ていたのだろうけれど、その果てに勝手に返事を書き出すという越権行為を始めだすので、ここが本作の重要ポイントとはいえ、うへーって感じである。人間的な行為なのかもしれないけれど、ある種の自慰行為というか、そんなもんだよな……。せめてもの救いはサリンジャーに成り代わって書くのではなくて、自分の名前を出していることだけれども。しかも、ライ麦をまだ読んでいないのに雑に引用して説教臭いことを返すということをするので、だいぶきっつい。これに関しては因果応報的に送った相手から直接ツケを払わされるのだけれども(ただ、この相手も自分の問題の責任転嫁ができる相手を見出してサンドバッグしに来ただけでもある)。

ハプワースの出版打ち合わせの場所にこっそり忍び込むにしても、その動向に注目する(建前上の)仕事もほっぽって、彼ピがくれた小説の感想を直接原稿に書くのに夢中になってたり、その後のカバーも雑だったり、その足で(たぶん彼女にとっては目的である)別れを曖昧にさせたままの元彼ピの演奏会に行ったりとか、よく言えば自己が確立しているなんだけど、エゴが目立つというか。反面教師的というか。
これが出版されると、サリンジャーに白羽の矢を立てられた弱小出版社にとって影響はでかいし、作家を守るという本来の職務のために出版社の立ち居振る舞いもすり合わせちゃんとしないといけないとか、社会的な影響とか、いろいろあるのにそっちのけである意味すごいというか。サリンジャー本人がすぐそこにいることもどうでもいい態度取れるのもすごいんだけども(サリンジャーにとってはそういう態度こそ望ましいのだろうとも思うが)。
ただ、ここのシーンでハプワースを(ひいてはサリンジャー作品をとも言えるのだけれど)理解するためのヒントが明示されるやり取りがあったことが記録されてるという点ではすごい場面なのだろうは思うけども。

サリンジャーからは電話越しに書く人であることを止めるなという励ましを繰り返しもらっておきながら(作中では口頭で語られるのみだが、サリンジャーとの電話でのやり取りは日常的なほどの回数にもなっていたらしい)、会社の仕事の役割に囚われたり、元彼を恋しく思ってi miss you too…とかアンニューイに呟いたりとか(この直前に、同じ作家志望の仲間が男に付き添って書くのを辞めて街からも去るという話も差し込まれる)、自分が処理するものでもないファンレターまでこっそりカバンに詰めたり、なんかもう、なんだかもうって感じ。
なんだかいい人として主人公の採用シーンからそこにいた老紳士はピストル自殺して、それも彼女の視点からは欠かせないものがあるからだろうけど、サリンジャー作品と重ねて連想するように物語の中で配置されているので(少なくとも作品の読者ならそうなるように配置されているので)、その死すらも彼女の話=自叙伝=自分語りの材料にされてもいるので、なんだかすごいな!という気持ちになる。気分が悪い。
ちなみに作中ではファンレターの書き手が語り手的に描写されて、特にホールデンと自分を重ねたような少年は主人公の前に半ば幻となって登場したりと、とにかく作品からファンレターの書き手から、同じように材料化されている。
ジュディ・ブルームと会社の一件も材料化され、彼女はビジネス視点での評価ではなくあなたからの生の感想が聞きたかったのよという話につなげて、自分にとっても直接語られる感想の重さみたいなところに繋げたりする。
終盤ではようやく読みだしたサリンジャー作品の感想を言い、自分の人生と重ね、ミュージカルばりに元彼と共に踊り出しもする。
そんで今彼とはすっぱり別れて、仕事も軌道に乗り、でも彼女は自分の夢のためにここで甘えずに仕事を辞める決意をする。
ニューヨーカーに詩集の原稿も渡し、あとは発つときを待つだけの会社ではいよいよサリンジャー本人が訪れ、そのポケットにホールデン少年めいた少年の手によるファンレターを忍ばせる禁忌を冒し(えげつない行為である)、彼女自身もこの時点になってようやく直接彼と対峙して……というところで物語は終わる。「物語」が、終わるのである。

原作の自叙伝なのか回想録なのかはたぶんここまでひどくないと思うけれど、少なくとも映画となった本作に限って言えば、ひたすら自慰行為見せられてるような気分になるものだった。自己満足的というか。人生、結局のところそれができるほうが幸せなのかもしれないが。

この映画から汲み取れるのは、気味の悪さだと思う。
せいか

せいか