せいか

ペルシャン・レッスン 戦場の教室のせいかのネタバレレビュー・内容・結末

4.0

このレビューはネタバレを含みます

02/25、Amazonビデオにて動画レンタルして視聴。字幕版。
WW2、ナチスによって捕らえられたユダヤ人がペルシャ人のふりをしてペルシャの言葉を学びたがっていた収容所の将校にでっちあげのペルシア語教授をする話。もう少しおかしみのある話かとも思っていたが、どっこい、作中ずっと張り詰めた空気があった。

主人公はたまたま収容所へ向かうはずの車の中でペルシャ語の本と食事を交換したことによって射殺されそうになるときに自分はペルシャ人だとごねられるようになり、さらにたまたま講師となるペルシャ人を探していた将校がいたためになんとかその窮地を乗り越える……といったところが物語の起点となっている。彼はこのときに理不尽にも収容所にすら送られることもないまま道端で銃殺される一行の第二陣だったために先んじて何が起きるかを理解し、撃たれる前に倒れることでまず死から逃れようとし、それでもばれてごねるといった経緯があったりもするのだけれど、この諦めなさというか、主人公の生への執着が作中はずっと描かれ続けることになる。必死で拵えていく似非ペルシャ語はそうした要素の一つでもある。

また、本作は「食事」というものもフックで、これについても駆け引き材料としての本(=本作においては偽りの種となるもの、交換対象としてのもの)と食事という冒頭描写のこの表現が作中では何度も反復して登場してもいる。兵士たちは食事と引き換えにペルシャ人を名乗る男を将校に渡し、主人公はたまたま隣のベッドの仲で知り合ったイタリア人のために食事をこっそりと与え、そのかわりに彼に命を賭して守ってもらえるほどの恩義を返される。それに作中で食事風景が出る時は何らかの情報のやり取りなどが発生している要所ともなっている。食事を配布しながらその代わりに主人公が収容者たちの名前を得ていくのもこうした要素の中にある。将校はテヘランでレストラン経営をしたがっていたり、かつては食に困窮するほど餓えていたことも明かされるし、主人公は収容所では基本的に台所に立つ役目を負っている。
心を開いて過去を語るようになった将校が言っていたように、貧乏を極めていたときにいつも食事のことで頭がいっぱいだったとあるように、つまり本作における食事とはこの一つの意味を持った上で表出している。生への執着そのものなのだ。そしてこの食事というものは各々の生き汚ささえあからさまに見せつけてしまうものでもあるし、同時に、他人との繋がりが生まれるための介在物になりもする。作品に出る人々は囚人側であれ看守側であれ、みな各々に貧しい。頭の中は食事によって象徴されるものでいっぱいで、余裕がなく、苦しい状況なのだ。その現れ方がいろいろ違っているだけで、一人ひとりに何らかの地獄が現れている。その息苦しさと抑圧とを本作のような形で表現していた点がなかなか好きであった。観てて気分はサイテーなんですけれども。戦争状態という環境下を利用してドイツ兵たちは自分たちの個人的ないざこざを暴力的に受け流すという描写も散見していて、誰であれ命が平常以上にというか、平常のそれが既に持っている残酷さを捉え、他人にとっての他人の命の軽さを描くものでもあったし、イタリア人兄弟のように、かといってそうとも言えないものだってあるというのも描かれていたり、なんというか、似非ペルシャ語を収容所で学ぶぜ!というあらすじからは想像できないほど深みを持った作品だった。

食事が裏側の題材として、表側の題材はもちろん似非ペルシャ語になるのだと思うけれど、この扱い方も面白かった。
将校は自分のその後のライフプランのためにペルシャ語を学びたいというエゴを収容所の中、自分がある程度好き勝手に権力を振るえる中において振りかざし、その結果として偽物を掴まされ、真面目にコツコツ(主人公の方は生きるために必死になって生み出している)架空言語を覚えるのである。そうして地上においては二人しか話者がいない言語で交流できるようになり、主人公に対してその偽物の言葉で自分の過去の苦しみを語るという皮肉も発生し、最後には、他の兵は見捨てて自分一人だけ逃げおおせた上でテヘランの地に着いたところで意味不明言語を話す、身分を偽ったドイツ人として捕まるという報いを受けもする。
対して、主人公はその言語を必死で生み出し、且つ、囚人たちの名前から単語を生み出していくということもしている。つまり、彼の似非ペルシャ語は殺されていく無辜の人々の死体から抽出されたもので構成されていたり、ナチスの蛮行に現れているこの狂った状態の中での彼の必死さが滲むものとして一つの言語として形作られ、それをその原因であるナチスの将校に叩き込ませるという構図になっているのだ。
こうした点において、あまりにも無数の、みすぼらしく過ぎ去ることを強いられていった人々の夥しい死体が主人公の生きていく過程の中でひっそりと積み重なっていく。終盤、もはや生きることを諦めようとした主人公が、冒頭に引き続き自分が一食のために誰かの命でもって救われたそれに応えるように同じことをしようとしたとき、それでも彼だけは将校は無理を押して救い出すということをする。同じ立場にありながらしかし死んでいく人々は相変わらず一本道を歩かされていく中、引き止められた彼が将校に対して素直に、彼らの命だって重要だし、あんたたちみたいな人殺しよりずっといいというようなセリフをぶつけていたことがかなり強く刺してくるものがある。
そしてそのもはや表立った抵抗のできない彼らこそが主人公を介して言葉となり、将校の中に流れ込み、他人にとっては意味不明の言語としてテヘランで話されて彼の破滅に至るという復讐が為されるのである。自らは直接手を下すことはなかった司令塔構成員である彼は、こうして迂遠にまた自分も断罪されてしまうのだ。

主人公と将校に何らの人としての交流が全くなかったわけではないし、主人公が最終的に生還できたのも彼が自分の逃亡時に主人公も途中まで連れて行ったからなのだけれど、その関係は最後まで決して対等なものではなかったし、嘘で固まるしかないものでもあった。主人公からすれば、自分が特別扱いで生かされている中で夥しい人々が死んでいくのを目の当たりにする日々であり、それを許し、見せつける将校はやはり恐怖の対象だとかそういうものでしかない。将校は偽りの言語で過去を語れようとも、主人公はどんな言語であっても自分の過去を語れるはずもない。彼らの関係はその程度でしかないし、どれだけ心を近づけようとしたって永遠に上滑るしかないし、そうしたことについて将校を憐れむ気持ちにすらならないのが本作はだいぶパンチが効いている。

ラストの逃亡時、ありのままの格好で(イタリア人の囚人と交換したコートという、収容所での人生という過去も着たままで)いる主人公に対し、森の中でどんどん軍服という象徴を脱いで自分を偽る将校という対比もなかなかだった。本作、とにかくいろんな形でいろんな対比構造がありもすると思う。最初に「嘘つきは許せない」と脅すように言っていたその本人が最後には自らを偽り、もう一方は最初にまず自らを偽り、最後にはありのままの自分に戻りもするとか。

立場を偽るしかない主人公がそれでも度々囚人側に位置する人々に素直に自らが嘘をついて過ごしていることを白状し、それでもたまたま見逃してくれるような人たちだったために命が助かるというシーンが2度あったのも印象深い。一つは、最初に逃亡しようと逃げた森の中で飲んだくれていた兵士であり、もう一つは、瀕死状態で担ぎ込まれたドイツ兵用の医務室に滞在する医者である。どちらも本作の中にあって清潔感のある空気の中、森という深層の場と瀕死状態での医務室という、意識が深みに入るような場面設定でなされていたのも面白いなというか、素直になるしかないのだろうなという説得感があるというか。そういう意味での森で言えば、上記したラストにおける主人公と将校の対比というのがまた皮肉的でもある。

序盤および終盤において、主人公が収容所は破滅に至り、特別に彼一人だけが逃げ果せてしまったという状況の中でひたすらに森の中の一本道となって現れているレールの上を歩いて行くというシーンがあるのだけれど、ここに何か救いのようなものが感じられないように見えるものとなっていたのも印象的だった。作中、人々は迂回路のない一本道を歩いて行き、死んでいった。主人公は活路としてそこを歩いているけれども、レールの上(しかも森の中の!)のそれは、軋む車輪の音が聞こえてくるような道である。自分が去ってきた背後には夥しい死体が既に横たわっていて、真っ直ぐ歩き続ける限りいつかは彼もその車輪の下に轢き潰されるような、見た目にはただの森の中の線路がある道である。
さて、翻ってこの道は現在にはないと言えるのか、自分の深層には存在しないものだと言えるのか。われわれの、私の道程はどのようなものであるのか。頭の中には食事でいっぱいにはなっていないか。無数の哀れな人々を無視し、誰かだけを特別扱いすることでまるで表面的な感動を偽るようなことはしてはいないか。
観ていてグサグサくる作品であった。そしてまたそれがあらゆる意味で露骨な表現を伴いはしないという塩梅になっているのがすごい。

そして、似非ペルシャ語についてもっと言えば、言葉が通じるということの重さも捉えたものだったとも思う。彼らは母国語であるドイツ語ではなく、架空言語によって立場を超えて(歪んだ関係のままに)繋がることができたのだ。別の言語があったからこそ現状からずらしたところで交流ができたというか。言葉を交わすことがいかに大切かという作品でもあったし、言葉は他人を無茶苦茶にするものでもあるというものでもあった。人は他人と向き合って交流することで何らかの化学反応を起こすし、これがおざなりならばなおさら破滅が近づいてくる。この辺に関してもやはり改めてグサグサ刺さるものがあったし、現代社会のいろいろにおいてこういう言葉の効能があらゆる形で現れているのがいろいろ過ぎりもした。偽りの上に滑稽に本当を乗せたり、本当の上に偽りを乗せたり、繋がったり、断ち切れたり。
言葉を通してその人自身を知るというのも、将校の描写とかそういうとこどけ見ると綺麗に見えるけれど、ドイツ兵の男が女にアプローチするのにまさに言葉を介して自分を教えようとするくだりとかもあったけれど、どこか上っ面で繋がりきらないものであるどころか、結果的に破滅を招く会話として成立していたり、好意的な眼差し一辺倒ではないのだよな。

対比の話にもやはりなるけれど、ラストにしたって、将校はついこの間まで自分たちがやっていた「ある分類に基づいた差別」という強烈なしっぺ返しを食らうという話でもある。相手にもはや言葉は通じず(それがまさに比喩的な意味ですらなくなる)、身体的特徴からも推測され、排除対象として捕まえられる。作中で主人公も「あいつはユダヤ人の特徴をしているからペルシャ人であるわけがない」とかいうくだりがあったのもこうした点を補強するものでもあったと思う。
それに主人公の破滅にこだわっていた一ドイツ兵が、ラストに将校と主人公が収容所から脱走したことを上官に報告しても、もはやそんなことに拘ってはいられない彼らに、「それできみは他にやることがないのかね?」と冷ややかに言われるのなんかも、まさにナチスドイツがこの場所でやっていたことそのものに突き返すものにもなっていたように思う。線引きした誰かの破滅を願い実行する、強烈なヘイトは何のためにやっているのかね?という鏡というか。うまいこと構成しているよなあとやはりしみじみ思うばかりである。主人公が将校に特別扱いされることで、主人公が及び知らないところでそのはみ出たドイツ兵たちが憎しみをこじらせていたりとか。一つの社会の話を寓話的に表現しているとも言える作品だったように思う。

本作は題材の一つとしてWolfgang Kohlhaaseによる短編小説の『Erfindung einer Sprache』があるらしいので、長さにもよるけど、短いなら頑張って読めると思うのでちょっと読んでみたいなと思った。
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