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荘園の貴族たちのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

荘園の貴族たち(2020年製作の映画)
4.5
[六つの場面、五人の貴族、三つの会話] 90点

大傑作。自身の作品が開祖的存在となったルーマニア・ニューウェーブも、発生から20年近くの時が経過しておおよそ終焉を迎え、その中心を担っていたプイウも新たなステージに移っていった。そもそも"ルーマニア・ニューウェーブ"という言葉自体が定義不明瞭なので、出身監督の作品全てが該当するという考えもあれば、より狭い"共産時代末期から崩壊後のプレカリアートの物語"とするなど様々だが、発生から20年も経てば"ニューウェーブ"でもなくなり、後発の監督たちですら作品数を重ねて中堅監督になったので、ある種の呪縛にすらも見えるこの名称をそろそろ外す頃合いなのかもしれない。ちょうどアディナ・ピンティリエが『Touch Me Not』で金熊賞を受賞した際に、同作がニューウェーブに終止符を打ったとする記事を読んだ気がするんだが、2001年の長編デビューから2016年に発表した前作『シエラネバダ』まで一貫した背景で作品を作り続けたプイウの転向によって改めて気付かされるという、その存在の大きさに気付かされる。そんな新たな門出を祝うためか、2020年のベルリン映画祭から新設されたエンカウンターズ部門に選出され、監督賞を受賞した。

本作品はロシアの思想家ウラジーミル・ソロヴィヨフの『三つの対話』を原作としている。この作品は、政治家、将軍、公爵、婦人、Z氏(屋敷の持ち主?)という五名の立場の異なる貴族たちが善悪/戦争/宗教などについて各々の見解をぶつけ合い、揚げ足を取り合う様が描かれている。第一の会話では戦争や善悪について、第二の会話では世界や文化について、第三の会話では主に宗教について扱っていて、映画における会話も基本的には原作に"忠実に"従っている。プイウは2013年に同じ原作を基に、俳優たちの練習風景を収めた『Three Interpretation Exercises』を監督している。元々映画にする予定もなかったようなので、偶然映画祭で上映されただけに終わり、法的に配給が出来ない作品らしく、情報も限りなく少ないが、本作品のエドゥアール役 Ugo Broussot とイングリダ役 Diana Sakalauskaité の二人は同作にも出演しているようなので(プイウへの インタビューではダイアナではなくニコライ役の Frédéric Schulz-Richard が被っているとしている)、少なくともこの頃から何らかの形で『三つの対話』を作品化する意思はあったようだ。

映画化に際して、ト書きのみの原作には、ルーマニアはトランシルヴァニアの雪深い山奥にあるニコライの荘園邸宅に集まったという外枠が与えられ、登場人物の名を冠した六部構成の、200分もある超大作が誕生した。しかも会話の多くは、当時のロシア貴族の共通言語だったフランス語で行われる。また、原作における"公爵"は伯爵家の娘(?)オルガに、"将軍"はロシア帝国軍将校であるアンドレイの妻イングリダに変更されている。この変更は舞台劇のような映画に現代的な意味や俯瞰的な意味を付与している。"公爵"は良く言えば敬虔な、悪く言えば頭でっかちなキリスト教徒であり、映画では若い女性のオルガに変更されている。これは彼女の名を冠した第五部で、全く信心のない"政治家"エドゥアールと屋敷の持ち主(?)である"Z氏"ニコライという二人のおじさんコンビによって、執拗なまでに追い込まれる様がある種ミソジニックにも映る。原作を完全再現したソロヴィヨフ的主題にミソジニーという別の問題が加わって多元化することになる。
イングリダについても同様に、自身の名を冠した第一部で戦争の正当性を長々と演説するイングリダは、原作における"将軍の記憶"を"夫の手紙"として読み上げ、それを自身の意見の拠り所としている。延々と繰り広げられる貴族たちの哲学的な論議は、山奥の静かな邸宅という場所も相まって、世俗から離れすぎた支配者層による無益な思索を描いているようにも見える。この点で、"将軍"→将軍の妻イングリダという変更は、戦争に絶対に参加しないくせに戦争経験者のように戦争を語る彼女は、正しく世界から離れすぎているといえるだろう。

個人的に一番面白かったのは、第一部で会話に参加しないことを咎められたエドゥアールが引くほどの差別を盛り込んだ"欧州人"理論を語りだすとこ。1900年当時の世相を反映しながら、欧州は戦争に傾かずに仲良く統合していき、文化の担い手である欧州を真似て低俗なアメリカや野蛮なアジア/アフリカ人が文化の担い手たる"欧州人"となって、真の人間になる!みたいな補完計画を熱く語り、周りの人が互いに呆れながら適当に合いの手を入れているシーンで、本作品の真髄たる"自分たちを取り巻く問題について全く理解していない人々の話を聞くことの本質的な退屈さ"を感じた。この滑稽なパートは姿の見えない暴徒の乱入と銃撃によって締めくくられ、長い作品の中で唯一視覚的な暴力と世界との繋がりを感じるシーンになっている。

彼らの会話は基本的には原作に則ったものであるが、第二部ではいきなり執事イシュトヴァーンが主役となって貴族たちの会話が中断されるなど、与えられた外枠からの侵入者によって原作から逸脱していく。第四部の終幕では、暴徒のような声と銃声によって五人が倒れるという致命的なシーンが出てくるのに、暗転の後に全員がピンピンしていたり、一日の出来事のはずなのにクリスマスツリーがいたり消えたりしているなど、時間の迷宮に陥った『皆殺しの天使』のような感覚を覚える(披露も相まって!)。また、ケーヒニスベルクの地図やオイラーの肖像画が示唆的に飾ってあり、プイウ本人も題名を"ケーヒニスベルクの七つの橋問題"にしようと思っていたという通り、一筆書きで描けない迷宮とも重ねられている。更に、比較的中長距離からの長回しが多かった前半に比べ、後半に掛けて部を経るごとにカメラが役者たちに近付いていき、ラストでロングの長回しに戻ることからも、ある種の円環構造が出来上がっていることが分かる。

本作品を大変気に入ったという批評家ジョーダン・クロンクに対して、プイウは"全部理解するには三回観ろ"と言ったらしい。個人的にも滝のように流れる英語字幕で哲学を語られても全く理解できた気がしないので、取り敢えず購入した原作を片手に二度目の鑑賞に入ろうと思う。
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