あり

僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46のありのネタバレレビュー・内容・結末

5.0

このレビューはネタバレを含みます

欅坂46に、平手友梨奈レベルの天才がもう一人いたらどうなっていただろうか、と思った。

冒頭約1分、苦しげな表情でうずくまる平手の姿で泣く。
この時点でこれはやばいなと思った。
14歳の平手はあどけなくて、キラキラした大きな目が特に印象的で可愛らしい。
お兄さんがいらっしゃるらしいが、グループ最年少ということもあって、今泉の手を引っ張って「絶対に間違える。サポートしてね?」って言ってるところなんかもすごく妹らしくて可愛い。
こうやって誰かに甘えて、可愛らしく我儘言って、年上の後をついていくような、そういう感じが今までの平手の人生だったのかな。

石森の「欅坂は全員で手を繋いで崖にいる感じ」すごく分かる。
特に初めての平手不在のライブ、真ん中の平手中心に崖から滑り落ちた感じがした。
でも、平手と一緒に何人かは落ちかけたけど、小林とかみたいに崖から落ちなかったメンバーもいて、そういうメンバーが落ちかけたメンバーを引っ張り上げてた感じがする。
それでもやっぱり限界があって、最後には平手が一人だけ、進んで崖から落ちていったような、そういう印象。

平手の「完璧に満足した時には、きっと自然と涙が出る。いつか来ますかね、そういう日が!」、これ、黒い羊のMV撮影で回収されたのかな。
あの涙の理由が分からなかった。
これが、平手の言う満足して自然と出る涙なんだろうか?
もうセンターに立ちたくないということなのか?
感情移入しすぎたからか?
もうセンターに立たなくていいという決別と安堵か?
黒い羊、個人的に欅坂46の最高傑作だと思っていて、これが満足して自然と出た涙なのだとしたら嬉しいな、と思った、のだけどどうなんだろう。

平手は本当に「偶像」という意味での「idol」を体現したアイドルだと思う。
彼女が完璧にイメージを具現化してしまう→イメージばかり先走りして走っていく→ファンが求める以上のイメージを平手が表現してしまう→よりファンが熱狂する、という無限ループ。
私も平手に偶像を押し付けた人間の一人だ。
ある意味、アイドルとして、偶像を提供するのは必須条件というか、それがアイドルの永遠の命題だとは思っている。
それでも、平手の場合は求められるものが素とはかけ離れ過ぎていたこと、求められるスピードが早すぎたこと、彼女が憑依型の、えげつないほどの天才だったことがこの結末に繋がった感じがある。

守屋も言っていたけど、メンバーの「平手以外のセンターを代役として立てることに、納得のいっていないメンバーもいた」という言葉。
理佐の「平手以外のセンターは嫌だ(ここ泣きすぎてあんまり覚えてない。意訳。センターに立ちたくないだっけ?)」的な言葉。
そして2017年だか2018年の平手の「(自分ばっかり目立ってしまうから)欅坂を離れようと思う」という言葉。
ここ、平手とメンバーで相容れなかった感情なんだろう。
欅坂46は、小林みたいなタイプもいるけど、やっぱりバラエティ観てても「消極的で依存体質」なメンバーが多い。そりゃデビューからあんな「バックダンサー」と揶揄されるような扱いを受けていたらそうならざるを得ない部分もあるけど、「とりあえず平手がセンターでグループを引っ張ってくれればなんとかなるだろう」みたいなそういう空気があったのは否めない気がした。
ここも平手が孤独になった原因かなと勝手ながら思った。

今回のドキュメンタリー、小池のセゾンのくだりが個人的にとても良くて、「平手のセゾンを秋冬とするなら、私のセゾンは春夏にして、繋がるようにしたい」というのが特に好き。
そう思い至るまでは色んな葛藤があったんだろう。
欅坂46のメンバーの辛いところは、「ファンは平手を観に来ている」というところだ。
これ自体は、私はそうじゃないと思ってる。各メンバーのファンもたくさんいるし、そうとは言い切れない部分が多分にある、だけど、佐藤の言葉にもあったけれど、少なくともメンバーは「ファンは平手を観に来ている」と思っているのが辛い。
たしかに欅坂46を知らない人は、欅坂46=平手友梨奈、そう認識してしまうのも仕方がない。
でもだからメンバーは、「平手にならなくてはいけない」「平手のした解釈から外れてはいけない」「平手と並ぶパフォーマンスをしなくてはいけない」「平手の代理としてセンターに立たなくてはいけない」という感情に苛まれる。
そしてセンターを務めたら務めたで「センターてちじゃなくてガッカリ」「平手と比べて〇〇」と評される。
地獄か。
ここで懺悔するならば、私も「すごく良かったけど、でもやっぱり平手のセンターが観たかった」と知り合いに言ったことがある。
今にして思えば酷い言葉だ。
単純に「自分」として評価されない、そりゃ代理でセンターなんて立ちたくないだろう。
だからこそ、この小池の「秋冬のセゾン=平手の解釈」から乖離しようとした「春夏のセゾン」が尊い。

あと閑話休題だけど、
世界には愛しかないのPARCOでの撮影、あんなに綺麗な青空だったんだな。

「分からなくなったのは不協和音から」。
メンバーは憑依型、天才型の平手との関わり方が分からなかったのだろう。
それもそうだ、自分が不用意に関わって、平手を潰してしまったら取り返しのつかないことになるから。
誰にも平手の穴を埋められないことは本人たちが痛いほどわかっている。
欅坂46に、論理型で打算型の天才か、または感情で動く激情型か、もしくは平手と全く同じ憑依型の天才がもう一人いて、ダブルセンターだったらもっと違った気がする。
一人ずば抜けた天才は凡才を狂わせ殺してしまうけど、2人以上いると途端に空間に馴染むからきっと違っただろう。

まだ書きたいことがたくさんあるけど、まだ感情が整わない。
というか今のこの気持ちを言語化するのは多分無理だ。
少なくともあと2回は観に行こうと思うので、その時にもっとまとめたい。
あり

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