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僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46のTKLのレビュー・感想・評価

3.0
刹那的で、破滅的で、可憐。彼女たちのパフォーマンスは、限られた時間の中で許された「正義」だ。

と、2年前、初めて「不協和音」のMVを観たときに自身のInstagramに綴った。
当時、36歳、年甲斐もなく人生で初めて“アイドル”という沼にハマった瞬間だった。
それから、「欅坂46」という、エモーショナルで、エキセントリックな存在性に対して、熱狂し、心酔した。



ただし、流石に自分自身いい大人なので、彼女たちの存在が“つくられたもの”であることは理解していた。
どれだけ現代社会に背を向けるような尖った表現をしたり、笑顔を排して既存の価値観から逸脱した表情を見せていたとしても、「欅坂46」が、秋元康プロデュースの“アイドルグループ”であるという前提が覆るはずはなく、大手レコード会社が多額のプロモーション費をかけて提供する“商品”であることは揺るがない。

そこには当然、矛盾が生じる。

「大人は信じてくれない」と頭を大きく振っても、「変わり者でいい」と不可思議なダンスを舞っても、このアイドルグループそのものが大人によってクリエイトされているのだし、彼女たち自身も必然的に「大人」になっていく。

だからこそ私は、彼女たちがこのコンセプトとパフォーマンスを貫き通すためには、極めて限定的な時間の中で、じきに訪れるであろう破滅や破綻を覚悟しながら、エンターテイメントという「正義」を表現し続けるしかないだろうと感じたのだ。

「矛盾」は、無論彼女たち自身も抱え続けたものだろうし、多くの熱狂的なファンも、その不条理を内心では認め、理解しつつ、「欅坂46」が発信するメッセージとエンターテイメントを称賛し、楽しんでいたのだと思う。

決して揶揄的な意味ではなく、それは「欅坂46」とファンとの“プロレス”だったと思う。



そうして、ある意味予定調和的に辿る「破滅」への道程の中で、「欅坂46」は終幕を宣言し、コロナ禍で延期されていたこのドキュメンタリー映画が公開された。

まず率直に感じたことは、良い悪いは別にして、彼女たちの“本音”が表れている映画ではなかったなということ。
「嘘と真実」というタイトルが表していたものは、秘められていたコトがこのドキュメンタリーでつまびらかにされるということではなく、この映画で語られる言葉そのものが、「真実」でもあり「嘘」でもあるということだったのではないかと思う。

彼女たちが発する「言葉」は、今まで数々のメディアで発信されてきたものと同様に、やはりどこか拙く、意識的にも、無意識的にも、本当のコトを吐き出しきれていない印象を覚えた。
それに相反するように、劇中で映し出される数々のライブパフォーマンスでは、彼女たちの内情が激しく吐き出されているように見えた。



そして、気付く。この映画のタイトルが「僕たちの嘘と真実」であるということの意味に。

“私たち”ではなく、“僕たち”である。

即ち、このドキュメンタリー映画で映し出されているもの、または映し出そうとしたものは、「欅坂46」というアイドルグループを構成する“彼女たち”のありのままの姿などではなく、彼女たちが作品の中で表現してきた「主人公=“僕”」の真の姿だった。

平手友梨奈というカリスマを象徴的に中心に据え、「欅坂46」という群れが一体となって作品の中で体現し続けてきた「僕」。
作品に登場する「僕」とは、どのような存在だったのか?
彼女たちにとって「僕」とは、どのような存在だったのか?
この映画が突き詰めようとしたことは、そういうことだったのだ。

メンバーたちの虚空を掴むようなどこかぼやけた言葉の理由も、ライブパフォーマンス描写の中でのみくっきりと浮かび上がってくる輪郭も、その対象が「僕」であったことを踏まえると途端に腑に落ちる。



ただ、そこに「意味」はあっただろうか。

少なくとも、この“終幕”のタイミングで遂に公開されたドキュメンタリー映画として、このアプローチが意義深いものだったとは思えなかった。

なぜなら、多くのファンにとってこの映画で伝えられたことは、既に理解しつくしているコトだったからだ。
作品の中に登場する「僕」の存在性と、彼が内包する葛藤と矛盾、それらすべてを体現する平手友梨奈の苦悩、そして「欅坂46」との関係性。
それらは、「欅坂46」の作品やパフォーマンスを通じて、表現され続け、伝えられ続けてきたものであり、もはや概念的なものである。

5年という年月の中で、「欅坂46」が作品を通して表現し創造してきた概念。
ファンの一人一人がそれぞれに受け取り、理解してきたその真理を、敢えてドキュメンタリー映画の中で伝える必要があっただろうか。
それは、彼女たちが文字通り魂をすり減らして生み出してきた作品の世界観と、それに共鳴してきたファンの心情を侵害するものではなかったか。

ならばドキュメンタリー映画なんて観なければいいと言われそうだが、それも少し違う。
個人的に、このドキュメンタリー映画で観たかったものは、やはり、「欅坂46」というアイドルグループを表現してきた彼女たち一人一人の「声」であり、人間としての「姿」だった。

私は、「欅坂46」が表現する作品の世界観に没頭したけれど、次第に、アイドルとしての彼女たち一人一人のファンになっていった。
素晴らしい楽曲による圧倒的な作品世界に熱狂すると同時に、冠バラエティー番組や特典映像で見せる飾らない特異なアイドル性に癒され、大げさではなく日々の活力となった。

だからこそ、卒業・脱退メンバーも含めて、彼女たちのこの5年間における表立っていない「声」や「姿」をもっと反映してほしかったと思う。

無論、そうしたからと言って、彼女たちの“本音”のすべてが聞こえるとは思わない。
それでも、「黒い羊」のMV撮影終わりに、他のメンバーと乖離するように一人立ち尽くす鈴本美愉しかり、インタビュー中「ここでは話せない」と吐露する小林由依しかり、センターに君臨する平手友梨奈のカリスマ性を嫉妬と敬意をにじませながらじっと見つめる今泉佑唯しかり、表現しきれていない彼女たちの何かしらの思いは、今作の端々からも伝わってくる。

ファンが欲したのは、「僕たちの嘘と真実」ではなく、「私たちの嘘と真実」だったと思うのだ。



このドキュメンタリー映画鑑賞後の数日間、複雑な感情が入り混じりながら、「欅坂46」の5年間に思いを巡らせた。
「発信力」という観点に絞るなら、良い意味でも、悪い意味でも、彼女たちは作品を通じた“パフォーマンス”がすべてだった。
そのことがアイドルグループとしての“ひずみ”や“鬱積”、そして危ういバランスに繋がっていったことは否めない。

それは、類まれな才能に酔ってしまい、「運営」としてコントロールすることを放棄した大人たちの責任でもあろうし、一つのイメージから殻を破ることが出来なかった彼女たち自身の責任でもあろう。

ただ、その危うい偏りが、あのエモーショナルを生んだのであれば、それは圧倒的に正しいことであり、やっぱり「正義」だったと思うのだ。





予想通り、長い長い駄文を綴ってしまった。
だがしかし、こういった期待と裏返しの不満や憤り、そしてそれを補って余りある圧倒的なエモーショナル、喜び、発見、それらすべてをひっくるめて、「欅坂46」という稀有なエンターテイメントであった。



ああ、楽しかったな。今はただそう思う。
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