宙崎抽太郎

大怪獣のあとしまつの宙崎抽太郎のレビュー・感想・評価

大怪獣のあとしまつ(2022年製作の映画)
5.0
#大怪獣のあとしまつ 考

【わたしたち】は滑っている。そして、これからも【わたしたち】は滑りつづける。

え、オレたち、滑ってんのか⁉︎
勝手に一括りにするな!

そう、【わたし】は滑っている。この映画に一票入れてしまう人は、きっと、笑いのセンスがおかしいか、古い人なのかもしれない。

笑いとは、笑ってはいけないことを笑うことによって、共同体に補助線を引くバランス調整。いわば、共同体の外側から共同体の内語で記述するココロの【禁】線を刺激する暴力にならない暴力。

怪獣とは【フクイチ≒放射能ダダ漏れ≒メルトダウン≒核無限拡散】の暗喩。笑ってはいけない禁忌。50万年くらい、ゆるく熱せられたフライパンの上でダンス。映画的な解決は用意されていない。怖いのは、この映画より【滑っている現実】のほうかもしれない。

本来、【国禁】映画なのだ。わたしは、染谷のキノコ人間(ネタバレ)で、心の中でクスッと笑ってしまった。鬼ごっこで、鬼に捕まってしまった瞬間である。

面白い、面白くないに還元されてしまうだけではない【違和感≒残念感】が根底に伏流丸。日本は、ある意味、健全である。良かった。感電しても、手が離せるし、魔女狩りもない。

話はズレにズレて【シン・ゴジラ】と【君の名は。】が公開されたときは、311を引き受けて、日本人の中にある、整理のつかない、不分明なもやもやに、物語の形ではあっても、決着らしきものを与えてるのを見て、凄い勇気あるなと感動。あの時代、大ヒットしたが一歩間違えたら、大顰蹙になるかもしれない暗喩を扱っていた。そこを思い切り、踏み込んで、昇華していたところが偉いなと感じ、あれは、映画というより、映画の形を取った、ひとつの鎮魂の祭りだったのではないかと。掬い取れない余剰ができるのは、覚悟の上で、ひとつの形を与えることで、少しでも、相対化する補助線を与える。完全な形がないのを承知の上で、物語の形にまとめて、心の残骸をデフラグ、デトックスする。もしかすると、気づかないうちに、暴力になりそうな地点もありつつ、忖度、度外しで、ボールをゴール蹴り込むような勢い。日本国民の心に、ふわふわ浮いていた、形のつかない何かを掴みに行っていた。大ヒットは現象は、そんなニーズを鷲掴みにしたのではないかと。普段、人がまばらな私の近所のシネコンが、両映画とも、初日から、満員になっているのを見て、なんじゃこりゃと思い、見終わって、これは、祀りだと感じた。ひとつの事象に補助線を引く勇気を持っていた日本のクリエイターに脱帽。なんて偉い人たちなんだと。それまでは、世界崩壊のディストピア的に背景として扱っている映画はあったが、真正面から扱ったのは、上記二作品がきっと最初だろうと。

#大怪獣のあとしまつ は、不謹慎である。笑いが詰まらないというより、ああ、オレ、こういう現実のなかで、こんな感じに生きてることに心当たりがある気もする、というメタ笑いに天才を感じてしまう。岩松了たちの、滑りに滑って、絶対、着地しない寒さの戯画化が怖い。というより、自分は、普通に面白かったので、やばい。中国、ロシア、北朝鮮では、きっと、作った人間も、見た人間も【お山送り】である。

#大怪獣のあとしまつ は、絶望のリアルイカゲームの、些細な日常に、にっこり、虚空を穿ち、笑うに笑えないキノコ人間像を、そっと、心の水洗便所に流して忘却させる強靭な日常性に付箋をつけ、たまに、いたたまれない【笑い】に身悶えさせられたことを思い出させるのかもしれない。だけど、わたしは、基本、東京都民であり続けるだろう。

宙崎抽太郎

笑いの蛇口は、開きっぱなしだ。
宙崎抽太郎

宙崎抽太郎