秀ポン

モンスターズ・リーグの秀ポンのレビュー・感想・評価

モンスターズ・リーグ(2021年製作の映画)
1.2
カンフーパンダの出来損ないか?と思いながら見ていたけど、意外に面白いじゃんと気付いてきた。
と思ったらやっぱりつまらない映画だったので、裏切られた気分になった。

具体的には、主人公達が試合をし始めて、その非レスリング的な戦い方をテレビが叩いて、街の人達も興味を示さない辺りの展開は面白かった。
というか、面白くなりそうな予感がしていた。

──以下、映画がまだ面白そうだった頃に書いた感想。

この映画はカンフーパンダで巧妙に回避されていた点に足を踏み入れ、議論をさらに先に進めたものになっている。つまり、自分らしさとそれを評価する世界との関係だ。

ガチガチの筋トレ無理だよ〜
→父親みたいにはなれないんだよ
→じゃああなたらしい練習をしましょ
本作のこの流れだけを見ると、カンフーパンダのパターンをなぞったように見える。

しかしカンフーパンダのポーやシーフー老子が「竜の戦士」という形のない象徴に囚われていたのに対して、こちらには父親という明確なモデルロールがいる。

カンフーパンダでは明確なモデルロールがなく、更にカンフー世界の価値観を司るのがウーウェイ老師1人だったが故に、彼が良いとすればそれは絶対的に良いことになっていた。(それ故にタイランが闇落ちしてしまったという業の深いシステムではある)そして彼がいなくなった後には修行における正誤の価値基準がなくなり、ポーの仕上がりを判断するのは、(シーフー老師を除けば)敵であるタイランただ1人になった。

そんなポーの仕上がりについて、ポーは白紙の龍の巻物を見て、ラーメン屋の父親に話を聞くことで以下のことを学んでいた。
理想の何かなんてなく、あるのは自分だけ、開いた時に映るのは自分の顔。スープが特別だと信じれば特別なスープになるし、自分を信じれば特別な自分になれる。
つまり自分らしい竜の戦士になりましょねーということ。

そしてここが肝心なんだけど、カンフーパンダではその自分らしさが外部から批評されることはない。だってこの世界唯一の価値基準であるウーウェイは既にいなくて、あるのは敵と自分、どっちが勝つかという物理的な勝敗だけだから。

しかしこちら(モンスターズ・リーグ)では毎試合がテレビで中継され、その戦いぶりの良し悪しを決めるのは敵ではなく観客達になる。
ショービジネスであるプロレスにおいては戦闘技術よりもむしろ精神性の方が重んじられており、みんなスティーブの父親という明確なモデルロールを知ってしまっているので、異端な戦い方で勝ちを掴む彼らはテレビでメタクソに批判される。

このモンスターズリーグの問題定義は、勝つことでその精神性が正しかったと認めさせるカンフーパンダから、一歩進んでいるように思える。
自分らしさと、それを評価する世界との折り合いをどうつけるのかが楽しみ。
(精神性とかいうとちょっと言葉の意味が大きくなってしまうけど、ここでは勝ち方、立ち振る舞いという意味で使っている)

────

ここまでが1〜2戦目の頃に抱いていた感想だ。
しかし話は期待していた方には進まず、試合が進むにつれてファンは普通に増えていった。

そして結果的にこの話は、情緒不安定な少女と情緒不安定な怪獣が偉大な父親を誇りに思ったり重圧に感じたりをずーっと繰り返すだけの退屈な話に落ち着いていた。

一度面白そうと思わされただけに失望は大きく、大嫌いな映画になった。

怪獣がレスリング周りでしか社会的な立場を持ってないってのもつまらないんだよな。
大きな怪獣と小さな人間の非対称な関係性も特に描かれないので、そもそも怪獣の映画なのかどうかも疑わしい。
人間なんて一瞬で殺せるであろう彼らの暴力性がリングの外に漏れ出ることは決してなく、彼らはただ見た目が派手なレスラーとしてしか存在していない。


──その他、細かな感想。

・ダンスで戦うのは結構だけど、練習の中で身に着けた特徴的なステップを実践で見せてくれるとかいうサービスもなし。アクションが適当すぎるんだよな。

・市長にはずっとムカついていた。「もうサインしちゃった〜」とか。爆破されるスタジアムを泣きそうな目で見てるのとか。

・CGのクオリティは正直低かった。テレビシリーズくらいの感じ。ディズニーやドリームワークス、イルミネーションを比較対象にするのは厳しすぎるというのはそうかも。

・カンフーパンダについて。
あの名作の持つ1番の問題点は、「あなたはあなたでしかなく、あなたらしくいるべきだ」
という内容の竜の巻物が、しかしブラックボックス的なプロセスで選ばれた、限られた者にしか与えられないという点にある。
要は、タイランが凄い可哀想ということ。
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