古川智教

ドント・ルック・アップの古川智教のネタバレレビュー・内容・結末

ドント・ルック・アップ(2021年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

人は自分の将来や利益を計算、予測しようとしてシミュレーションをするとき、思わず上を見てしまう。「ドント・ルック・アップ」とは腐敗した政治家たちが真実=彗星の衝突から人々の目を逸らせるために用いるキャッチフレーズではない。映画のタイトルに選ばれるということは、我々に文字通りの意味で突きつけたいメッセージなのだ。上を見て、シミュレーションするなと。

シミュレーションとは悪なのだ。なぜなら、世界のすべてを包括するシミュレーションなど存在しないから。個々のシミュレーションはシミュレーションである以上、もちろんより良い結果に導こうとする。限定された範囲内で。SNSやメディアでは人気や視聴率の上昇という良い結果を目指して、どう見せるか(メディア訓練)をシミュレーションして実施する。大統領とその側近は中間選挙をシミュレーションする。ディビアスキーの恋人の裏切りも、自分の仕事の成果をシミュレーションしたがためだろう。そして、そうしたシミュレーションの最たるものがBASHと呼ばれるAIだ。人の死に方まで予測しようとするのだから。シミュレーションの物象化した姿そのものだ。シミュレーションをしている人間は悪いことをしているとは思っていない。シミュレーションの限定された範囲内で、より良い結果に導こうとしてさえいる。しかし、シミュレーションはその範囲外のことを切り捨てようとする。そして、それが根源的な悪をもたらすのだ。資本主義の本質とは金銭や商品の流通ではなく、そのシミュレーションにあるとでも言えそうなほどだ。

そうした意味では、そもそも物語の始まりである彗星の軌道計算もまたシミュレーションに過ぎない。真実を突きつけようとしても、シミュレーションをすることによって、逆説的にもシミュレーションに含まれていない範囲外の物事を悪い方向へと転じていく。シミュレーション結果=彗星の衝突はそれ自体の範囲内では、シミュレーションが成功した良い結果なのだ。一歩シミュレーションの外に足を踏み出すと、シミュレーションの庇護は一切なくなる。

レオナルド・ディカプリオ演じるミンディ博士がテレビ番組内で、「なぜ対話が成立しないのか」、「なぜ心が通い合わないのか」と叫ぶのは個々のシミュレーションが交わるがないためだ。交わってしまうと、シミュレーションが狂ってしまい、予測通りに事を運ぶことは難しくなる。もちろん、すべてを包括するシミュレーションが存在しない以上、シミュレーション同士は反撥し合い、全体としては悪い結果、悲劇へと転じていくしかない。

シミュレーションからの逸脱が起こるのは、スーパーのレジ前でのティモシー・シャラメとジェニファー・ローレンスとの出会いである。ティモシー・シャラメは酒の万引きをしようとしていることをジェニファー・ローレンスに打ち明けたときに、ジェニファー・ローレンスから別に持っていっても構わないと言われるとは予想していなかったはずだ。想定外のことが恋をもたらし、シミュレーションから身を引き離すことができる。

ミンディ家での最後の晩餐で、ティモシー・シャラメの祈りが美しく感動的なのは、それが如何なるシミュレーションにも絡めとられていないからだ。誰も上を見ようとはしていない=「ドント・ルック・アップ」。皆が手を取り合って、各々を見つめ合っている。そして、メリル・ストリープはBASHのシミュレーション通りの死に方をするが、BASHの予測に反して、ミンディ博士が孤独死にはならないのはシミュレーションの埒外に彼が踏み出しているからだ。

エンドロール後のジョナ・ヒルが瓦礫の中から這い出してきて、「ママ」と叫ぶときに「ルック・アップ」=上を見ていることにも注目しよう。別の地球環境とよく似た惑星で裸の資本家たちが鳥のような地球外生命に取り囲まれて襲われそうになっているのが俯瞰図なのも、それが地球から「ルック・アップ」=見上げられた結果であるからだろう。そして、皮肉にも「ドント・ルック・アップ」という映画そのものが人類滅亡というシミュレーションに過ぎないということこそが、シミュレーション社会である資本主義に対する痛烈な批判なのだ。
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