ーcoyolyー

スペシャルズ! 政府が潰そうとした自閉症ケア施設を守った男たちの実話のーcoyolyーのレビュー・感想・評価

4.0
これ監査入るじゃない。それでずっとColaboのこと考えざるを得なくなって、ずっと苦しかった。

目の前に出てくる人は見た目でわかる記号と名前から判断するにユダヤ教徒、イスラム教徒、黒人が多くて、でも医者や監査する側は「普通の」白人で、恐らくその人たちの多くはカトリックのフランスにおける「普通の」エスタブリッシュな白人で、フランス社会における出発点がそもそも違って、多分この階層の人の家で自閉症児が生まれたところで周囲の環境がある程度理解あるのでそれなりの助けを得られているんだと思うんですよね。ここの施設の利用者(及び支援員もだけど)ってまずもって出発点から何らかのビハインドを背負っているがために孤立しやすい背景があるんじゃないかな。

そして「普通の」エスタブリッシュな白人家庭に生まれた自閉症児の中である程度の理解の範疇を超えてしまうとそこは家族ごとそのコミュニティから閉め出されてユダヤ教徒、イスラム教徒、黒人らで構成される場所に転がり込んでくる。「普通の」エスタブリッシュな白人階級からは見えないところへ追いやられる。

そういう階級の良い人が「良い人」でいられるのはその人が良い人でいられないことから目を背けることができるから。その人たちが目を背けた場所で足掻いている本当の良い人たちはその行為に苦しむ。

私こういうの観ると身の置きどころなくなるのよ。ADHD確定診断済の発達障害者ではあるんだけど、私にはASDの要素がなくて、むしろ真逆で、HSP気質でADHDというか多動もないADDなので、ASDと真逆くらいの度合いで人並み外れて他人の考えていることがわかりすぎて情報として流れ込んできて空気読みすぎてただじっと座っているだけなのに具合が悪くなってしまう。
人間というものはわからないものが怖い。ASDの人間は何を考えているかわからないからこそケアをしようとする、だけど私たちのようなタイプは他人に脅威を与えないので放置されがち。コミュニケーションが取れるのでケア必要ないよね、と判断されがち。私たちには私たちなりの困りごとがあるんですけどそれは普通の人にとって差し迫る危機として脅威を与えないので常に後回し。だから発達障害という名のもとに広く括られるとすごく居心地が悪いし、子供の頃いわゆるパワー系の人に襲われたこともあるので近くにいるだけでトラウマ刺激されてフラッシュバックと戦わなければならなくなって、ものすごくしんどくなる。でも大雑把な分類の中では私もその人たちと一緒の扱いをされてしまって、世間による発達障害=ASDという雑で乱暴な思い込みのせいで私に必要なケアはそれじゃないのに…という親切心やケアの押し付けに疲弊してしまう。そういう雑で乱暴な認識の人は発達障害=ASD≒知的障害的な更なる雑で乱暴な思い込みも持ち合わせていることが多いので、私がちょっと空気読んだりその人たちの想定より遥かに頭良さそうなことを言うと「犬が喋った!」的な扱いで驚かれてほとほとうんざりします。鳩が豆鉄砲を食ったような表情見飽きた。そして私は近くにASDの人がいるとカサンドラ症候群にすぐ陥りがちなので、自分を守るためにはとりあえず距離を取りたい。なのに「発達障害」という枠組みがそれを許さない。
私は社会の現状のラベリングでは「発達障害者」なんだけどその集団の中に入るとこの映画と逆でほぼほぼ支援員と勘違いされてしまうほどには定型を装うことができて、自分が生まれ落ちたある程度エスタブリッシュな階層から落ちこぼれるほどでもないんですよね。ADHDではあるんですけど。私のADHDは世間による「偏りのある天才」的なある種の偏見を強化するような発露の仕方をするみたいなので、世間からは何の取り柄もない、と判断され烙印を押されてしまう障害者コミュニティの中では「上級障害者」と陰口を叩かれるようなタイプの人間でもあります。

「上級障害者」って。何たるパワーワードかと。このディストピアたる現代社会の病理が凝縮されている。

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なんかさ、この監督にColaboも映画作ってもらえばいいんじゃないかと思った。綾瀬はるかとか橋本環奈とか紅白の司会やるような人たちや弱者男性を自称する人らに人気のある芸能人をキャスティングして作ってもらえばいいんじゃないかと思った。
ーcoyolyー

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