ナガエ

アイヌモシリのナガエのレビュー・感想・評価

アイヌモシリ(2020年製作の映画)
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よくある話題だけど、例えば味噌汁の具材が全然違ったりする。子供の頃、自分が食べてた味噌汁が「当たり前だ」と思ってたけど、大人になって、色んな地域の人と話すようになって、自分の子供の頃の「当たり前」が、全然当たり前じゃないことに気付いたりする。

けど、大体それは、他愛のないことだ。味噌汁の具が何かなんて話は、結婚して相手方の実家と関わったりするんじゃなければ、どうでもいい話だ。「これ方言だったんだ」とか、「信号機って横なんだ(雪国では雪があまり積もらないように縦だったりする)」とか、そういうのは、ちょっとした会話のタネみたいなもので、どうってことはない。

でもそれが、自分の出自に関するものだと一気にしんどくなる。

僕は正直、大人になってからその存在を知ったが、被差別部落出身者がコミュニティから排除される、みたいなことは、現代でも未だにあるそうだ。それを大人になって知って、メチャクチャ驚いた。少なくとも僕の周りでは、そういう話を聞いた記憶がなかったからだ。歴史に詳しくないので記述が間違っているかもしれないが、昔の会津藩出身の人と、昔の薩摩藩・長州藩出身の人は、未だに仲が悪い、みたいな話を聞いたこともある。僕からしたら、教科書に載っているような、全然身近じゃない事柄も、歴史というものが連綿と続いている以上、負の感情は受け継がれていくのだろうし、そういう反応も仕方ないのかもしれないが、しかし、望んでその地に生まれたわけではない人からすれば、はた迷惑、どころか、人生を大きく揺るがしうる問題になってしまうだろう。

アイヌというのも、同じような捉え方をしてしまう存在だ。僕からすれば、教科書の存在である。正直、その歴史を詳しく知っているわけでもない。本当は、それではいけないのだろう。間違っているかもしれないが、たぶん僕の祖先は、アイヌの人たちを何らかの形で迫害しているはずだ。本当はそういうことをちゃんと知ってないといけないんだろうと思う。

ただ、この映画を観て、それもよくわからなくなった。というのは、この映画を観て僕は、「アイヌの人たちも、自分たちがどうあるべきか分からないでいる」と感じたからだ。

この映画の主人公は、アイヌの町に生まれ育ちつつ、アイヌであるということに揺れ動く少年だが、この少年に限らず、劇中では、自分たちのあり方に揺れ動く人々の姿が垣間見えたと思う。それを一番象徴しているシーンが、アイヌの町に住む人たちが、アイヌ語を勉強しているシーンだ。既に彼らは、アイヌ語のネイティブではなくなっている。しかし、観光で栄えている町だからこそ、アイヌ語をそれなりには喋れないと都合が悪い、ということだろう。彼らは、「アイヌとしてどうあるべきか」ではなく、「外からアイヌとして見えているかどうか」に重心を傾けているように、僕には感じられた。

「アイヌ新法」が制定され、アイヌ民族の存在はより明確化されたと言っていいだろう。しかしその一方で、当のアイヌ民族自身が、どうあるべきか見定められていない。アイヌに注目が集まれば集まるほど、僕らは彼らをより一層「アイヌ民族」として見るだろう。しかしその眼差しは、彼らに、「アイヌ民族としてそれっぽい振る舞いをしなければならない」という圧力を生み出しうる。果たしてそれは、彼らにとって正解なのだろうか?

劇中では、お土産屋の店主として登場する主人公の母に、観光客が「日本語、上手ですね」と声を掛け、「たくさん勉強したので」と返す場面がある。劇場では、このシーンで笑い声が上がっていた。確かに、面白いシーンだと僕も思ったし、僕も実は笑い声をあげていたかもしれない。でも、「日本語、上手ですね」という見られ方を甘受しなければならないという、見えないプレッシャーのようなものが、主人公の少年が、アイヌ的なものを遠ざけたいと考えてしまう一因であることは確かだろう。

物語は、「アイヌがどう見られるかではなく、アイヌとしてどうあるべきかが重要だ」と主張する、アイヌ文化を正しく存続させようとするデボという人物の動きが中核になっていく。時代の流れに寄り添おうとする多数派と、それでもアイヌ文化を存続させるべきだという少数派の静かな対立が、少年を揺さぶっていく。

内容に入ろうと思います。
北海道阿寒湖温泉にある、アイヌコタン。アイヌの町として観光で成り立つこの町に、14歳のカントは住んでいる。友達とバンドを組み、ギターで洋楽を演奏したりと、僕普通に育つ少年だが、進路を問われて、「阿寒湖以外なら別にどこでも」と投げやりな返答をする。アイヌ的なものに関わらなければならない土地柄であることに、どことなしに違和感を覚えているのだ。そんな折カントは、デボから山の奥にある洞窟の話を聞かされる。死者の住む村がある、という。父親を亡くしたカントの気を引こうとしてのことだったかもしれないが、カントはデボと共に山に入り、キャンプをすることに。そしてその中でカントは、デボから秘密の仕事を頼まれる。子熊に餌をやってくれ、というのだ。カントは預かり知らぬことだったが、デボはイオマンテというアイヌの儀式を復活させようと企んでいた。阿寒湖では1975年以来行われていないもので、自分たちで育てた子熊を殺して神の世界に送る、というものだ。時代に合わないと反対する者が多くいる中で、デボはイオマンテを復活を計画し、密かに子熊を飼育していたのだ。カントの亡き父も、イオマンテの復活に執心していたと、後にカントは聞かされることになるが、そんなこととは知らないカントは、熊の餌やりを続けるが…。
というような話です。

いつもそうなのだけど、観に行く映画についてなるべく事前情報を知らないようにしているので、今回も映画が始まってしばらくは、これがドキュメンタリーなのかフィクションなのか完全には判断できなかった。カット割りは明らかにフィクションなのだけど、出てくる人たちの演技が演技っぽくない。下手、というわけじゃなくて、本当に、普段の日常をそのまま撮ってるみたいな雰囲気なのだ。途中でリリー・フランキーが出てきたので、これではっきりフィクションだと分かったのだけど。

後で調べてみると、主人公の少年は本作が初めての演技で、母親役は実際に母親なのだという。基本的に主要キャストはアイヌの人たちが務めているということで、演技経験が少ないというのもあって、ドキュメンタリーっぽく見えたというのもあるだろう。

正直なところ、カントが抱く葛藤を理解することは、僕には出来ないだろうなぁ、と思う。たとえば僕がこれから、外国に移住して生活を始めたりすれば、日本人であるというアイデンティティに思い悩むこともあるかもしれないが、そんな予定もないし、僕が現在知っている僕自身の出自的に、日本にいる限りカントのようなアイデンティティの揺らぎを経験することはないだろう。

ただ、そういう民族的なアイデンティティの揺れみたいなものは確かに遠いのだけど、それとはまた違った意味で、現代はアイデンティティに思い悩むことはあるだろう。今の時代は、SNSなどによって誰とでも関われるようになった一方で、趣味が合う、感覚が近いと言ったような似た者同士で集まれてしまう時代でもあって、そのことによって、少数の狭い無数のグループがお互いに分断を起こしている、という風に僕は感じている。物理的な距離は近くても、その分断に阻まれて、人間同士が狭い範囲に閉じ込められているような、そんな印象を僕は抱いている。

この物語を、アイヌ民族の話として捉えてしまうと遠く感じるが、しかしそれでもたぶん、カントのアイデンティティの揺らぎに共感してしまう人は結構いるんじゃないかと思う。それはきっと、多くの人がいつの間にか狭いところに閉じ込められてしまっている自分の状況に、薄々気付いているからではないか、と思う。

カントは、アイヌ的なものに全身で飛び込んでいくことに違和感を覚える。しかしその一方で、アイヌ的なものを完全に捨てされるわけでもない。連綿と続いてきている伝統というのは、もちろん、ただ伝統だからという理由で無為に続いているものもあるだろうが、案外合理的だったりする。伝統、というほどの話ではないが、例えば、夜に口笛を蛇が出てくるという話は、実は、泥棒が口笛で合図し合うことがある、という話と関係があるという。つまり、蛇という説明で怖がらせることで、実際は泥棒を遠ざけようとしているのだ。カントは山に入る前に、デボから山へ捧げる祈りを教わる。これも、無駄だと言えば無駄かもしれないが、山に入る前に山への感謝の気持ちを行動によって呼び覚ますことで、危険なことをしなかったり、ゴミを捨てたりして山を汚したりしなくなる、という実際的な理由があるんじゃないかと思う。そして、そこまで厳密に言語化出来ていなくても、カントもきっと、伝統には捨て切ってはいけない何かがある、という直感があるんじゃないかと思う。

全部は受け止めきれないけど、全部を捨て去ることも出来ない。ここに、カントの葛藤がある。父親が生きていれば、その葛藤も少なかったかもしれない。カントの父親は、詳しくは描かれないが、アイヌ文化を存続させようと働きかけるデボとも友人だったように、アイヌ文化を継承する意思を持った人物だったのだろう。そんな父親がいれば、より深くアイヌ文化に傾倒出来たかもしれないし、あるいはより強く反発できたかもしれない。母親は、土産物の店主として、観光客向けのアイヌ民族をやっているし、カントもそういう姿を目にしてしまうから、母親の存在だけではどうしても中途半端になってしまう、という部分もあるんだろうなぁ、と思う。

教科書や資料館では、アイヌ民族の歴史が理解できるだろうし、それは知っておくべきことだろう。しかし、そこからは滲み出てこない現実というものがもちろんある。その現実の中で生きる人々を、リアルなタッチで描き出す作品だと思う。
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