けんたろう

街の灯のけんたろうのレビュー・感想・評価

街の灯(1931年製作の映画)
5.0
【2019年10月9日の記】
街灯としないあたりタイトルのセンスを感じるおはなし。

人生初チャップリン!
いやあジョーカーの影響で観たくなっちゃいましてねーつって。ということでさすがは喜劇王。ボクシングのシーンがもうめちゃくちゃおもしろく、腹がはち切れそうになるほど笑った。そこ以外も確かに面白いが、すごいゲラゲラ笑えることはなく、やはりボクシングが僕の中では優勝だ。(家での鑑賞だったからこんな物だったのではないかと思う。本来の映画装置をもってすれば、きっともっと楽しめたことだろう。やはり映画は映画館に限る。)
そういった可笑しさもありつつ、よく言われるラストシーンには可笑しさなど微塵もなかった。最後の台詞に最後の表情、どちらとも取れるラストカットが頭から離れない。救済の循環こそ素晴らしいが、どうも釈然とできないのだ。あれはハッピーエンドだったのだろうか、いやバッドエンドだったのだろうか。その後のチャップリンの表情がまるで複数の感情をそのまま映している感じがして、もどかしい。だが人の感情は複数あるからこそ、人なんだろう。手放しのハッピーエンドでないのが素晴らしい。

「人生は近くで見れば悲劇だが、遠くで見れば喜劇だ。」
なるほど彼の撮った悲劇は確かに喜劇であった。


【令和四年十一月十四日の記】
何んだか最近、キリシタンが聖書を読むときと同じ眼で、私しはチヤツプリンや小津の映画を観てゐるやうな気が致す。最早や彼れらの遣りたる表現が総べて “正解” だと感じてしまふ。成るほど此の世に正解なんてものはあるまいが、其れでも感じてしまふのだ。最早や信仰である。

さて、DVDも含むれば二度目の鑑賞となる本作。前回の私しの感想を読んだのだが──一体、何ん何んだ此のクソガキは。此奴には目が無いのか。或いは心が無いのか。絶望なき、苦しみなき、姿勢なき鼻糞め。生活なき、理想なき、諧謔なき紙人間め。此んなゴミムシにも劣るうんこ垂れが賢かしらにチヤツプリンを何うたら斯うたら云うてゐるのを見ると甚しく腹が立つ。金玉もぐぞ此の野郎。

見よ! 此の間抜けなる男の強がりを! 弱き男の強がりを! 己が思ひどほりには丸でゆかぬ無様さを! 己の置かれたる状況がさつぱり判つてをらぬ阿呆さを! 可笑し。極めて可笑し。然うして切なし。嗚呼、チヤツプリンよ。貴殿の描きし ”生活” の、一体何んと美しきことか! 詰まるところ、チヤツプリンである。此れこそがチヤツプリンである!
蔑まれ、揶揄はれ、貶められ、人の為めにせし行ひも虚しく、甚だ理不尽なる目に遭うてしまふ、其の途轍もなく惨めで無様で不恰好なる浮浪者よ! 嗚呼、滑稽たり。其の貧弱なる様よ! 追従する様よ! 間抜けなる様よ! 嗚呼、滑稽たり。客の予想を悉く裏切つてゆく可笑しさよ! 客の予想どほりに落つる痛快さよ! 嗚呼、滑稽たり。ボクシングのシインに至つては文字どほり抱腹絶倒。可笑し。極めて可笑し。

然うして、然うして、然うして、劇中屈指の見窄らしき容貌で登場する彼のラストである。
嗚呼、其の至極滑稽なる姿は、途んでもなく可笑しいんである。然しながら、途んでもなく哀しいんである! ユウモアとペエソスとが共存したる其の光景は、コメデイの、映画の、即ち人生の極致であらん! 嗚呼、もう何うしやうもなく笑ひと涙が溢れてく。恥づかしがらずに申さば、私し大笑ひと号泣とを同時に致してしまうた。
果ては、彼の得も云はれぬ表情である。其れは果たして哀しさなのか、喜ばしさなのか、或いは──云ふも野暮。抑〻、名状できようものではない。比肩するもの、愈〻此の世に無し。

立川志らく曰く「良いコメデイアンは、必ず寂しさ、哀愁を背負つてゐる」らし。嘗て寅さんは「顔で笑つて腹で泣く」と歌うた。宮本浩次は「笑ふ瞳に、とはの涙を湛へろ」と歌うた。
何処の誰れにも崩せやしない。此の究極切なく、又た究極可笑しき、即ち男が唯一美しく在らるゝ姿勢は! 詰まりは、残酷なる運命も総べて受け容れて、笑へ!
嗚呼、映画とは即ちコメデイである。コメデイとは即ち姿勢である。姿勢とは即ち生活である。生活とは即ち人生である。本作は最早や其の極致。畢竟、総べてが……嗚呼、総べて……総べてが此処に極まれり。


①2019年10月9日 DVD
②令和四年十一月十四日 角川シネマ有楽町