うべどうろ

ピーター・パン&ウェンディのうべどうろのレビュー・感想・評価

3.2
「フック船長」の物語

この作品、なんと言っても、
そしてどう考えても、主人公はフック船長である。
(だからこそ、タイトルの目眩しが効いている)

まず第一に、ジュード・ローだけ圧倒的に演技がうますぎる。異次元の表現力に、悲しいかな「大人」の強みが浮き彫りになる。歳をとるということが、必ずしも「悪」ではないと、その全身で表現しているのではないか。

「ピーターパン」はディズニーのアニメ作品しか観たことがない。しかし、これほどまでに、フック船長の過去が語られたことがあるだろうか。
たしかによく考えれば、「大人」であるフック船長も必ず「子供」であったはずだ。かつては。
その残酷さが、ピーターパンと対比される。

人は誰しも「望んで大人になる」わけではない。
その意味は「人は必ず死ぬ」ということに等しくて、時間の摂理、生命の原理としての必然である。

それを我々は受け入れなければならない。
そこから逃れることができるのは、「死んだもの」か「想像上の存在」だけなのだ。
本作がフック船長の残酷なまでに悲しい境遇を描いたのは何故か。現代における「寓話」としてどのような意味を持つのだろうか。

この作品は、「大人になる」ことの象徴として、「母」への想いを描く。
それはなぜなのか。
それこそ、「子供」であることの特権と象徴であるように思えるのだが。
あるいはそこに、「本当の子供になる」ことが「(いずれ)大人になる」ことを意味するといった台詞に繋がるのだろうか。だとすると、「本当の子供」ではない唯一の存在が、ピーターパンということになる。

アニメ版はその点が明瞭であった。
ウェンディは、タイガー・リリーとピーターパンの関係を見て、「恋心」を抱く。「嫉妬心」を知る。それが、大人への階段を上るということのように思えた。

しかし本作はフック船長を主人公にした手前、その描写は選べない。彼が大人になった引き金は、ピーターパンへの「憎悪」なのか。あるいは「嫉妬心」か。アニメ版を想起すると、「恋心」なのかもしれないけれど。

細部まで考えようとすると、とても難解な作品だったと思う。
勧善懲悪の否定。「善悪」の不確定性。
などはわかりやすいのだけれど、それが設定となかなかマッチしてこない。

新しい視点でとても新鮮味は感じたけれど、全体的な深みのようなものには、いまいち到達できていない印象を受けた。

最後に。
監督は「セインツ」や「さらば愛しきアウトロー」で知られるデヴィッド・ロウリー。
彼は、蓮實御大が大絶賛する数少ない現役の監督なのだが、御大は本作をどう観たのだろうか。そして、どう語るのだろうか。
「見るレッスン」では、その評価の一つに、「90分で描ききる」ことを挙げていたけれど、本作は2時間近く。前作の「グリーン・ナイト」は130分。
お気に入りには激甘の彼が、本作をどう褒めるのかが見ものだ。
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