CHEBUNBUN

れいこいるかのCHEBUNBUNのネタバレレビュー・内容・結末

れいこいるか(2019年製作の映画)
2.0

このレビューはネタバレを含みます

【停滞と前進が共存する世界】
先日、映画芸術ベストテンが発表されましした。映画芸術といえば、映画ファンが賞賛している作品や、国際映画祭で評価された作品を積極的にワーストに入れることから、逆張り、嫉妬のランキングと言われガチなのですが、ベストに関しては信頼している。いち早く、深田晃司や濱口竜介、空族映画を発掘していることから、今後頭角を表そうな映画監督を紹介してくれるランキングとして参考にしている。今年の場合、宮崎大祐、HIKARI監督を発掘したことが重要である。さて、個人的にベストワンは『本気のしるし 劇場版』だと思っていたが、蓋を開けてみたら意外な作品『れいこいるか』がベストワンに輝いていました。一方で、本作は同誌のワーストにも取り上げられている。これはどういうことなのか?本作は、私の師匠にして映画評論家の寺本郁夫さんが2020年ベスト記事で取り上げていた作品でもあるのでアップリンク渋谷で観てきました。

確かに本作は賛否両論が分かれる作品である。残念ながら私の評価は「否」寄りでありますが、議論し甲斐のある作品なので今回はネタバレありで考察していきます。

「日本映画には中年をテーマにした作品が少ない。」

どこかの誰かがこう語った。確かに、見渡してみれば若者を主人公にした作品が多い。精々、30代のサラリーマンが主人公になったり、たまに老人が主人公になる場合もあるが、40~50代独自の問題に斬り込んだ作品はほとんど見かけない。本作は、単に阪神淡路大震災の痛みを描くのではなく、こうした中年の問題にフォーカスを当てているところがユニークだ。何故、そうしたのか?これは映画を観ると明らかであろう。

浜辺で家族がひと時を過ごしていると、伊智子(武田暁)にポケベルが鳴り彼女は去っていく。彼女は男と不倫関係にあり、夜の営みに励んでいた。一方、取り残された太助(河屋秀俊)は娘のれいこを寝かし、妻の帰りを待っているところにあの大地震が押し寄せて来るわけだが、カメラを揺らしたり、拙いエフェクトで地震を表現するのだ。インディーズ映画としてあの大地震の惨劇をフレームに収めることが極めて困難であるのだ。故に、本作は地震の被害を描かずに痛みを描く手法として、中年の葛藤にシフトしている。

本作は創意工夫に満ち溢れているのだ。

中年の痛みや葛藤をどのように描くのか?これを男と女にそれぞれ別の役割を与えて、そこから生じる不協和音でもって総合的な心理現象を捉えようとしている。伊智子はれいこの死を忘れようとする。『Beanpole』における娘の死により、家族の呪縛から解放され自由を謳歌するように、前に進もうとしている。それに対して、太助は過去に囚われており人生が停滞している。娘が好きだったイルカのぬいぐるみを常に抱えており、自分の元を離れた伊智子の周りを亡霊のように彷徨っている。この二人の間に流れる時間は残酷なように切り刻まれる。シーンが変わると、数ヶ月、数年が経過している。数分前までは伊智子が新しい男との生活を始めていたのに、次の場面では離婚していたりするのだ。二人の周りにいる人も、簡単に死んだり、老けていたりする。表面上は驚くほどに変化している。伊智子の前進したい気持ちを象徴するように変化し続けている。だが、その周りにある「過去のかけら」がその流れを逆行させている。この水と油が共存する空間がどこか居心地の悪さを与えている。中年になると、どうしても過去のしがらみから逃げることができない。無視しようとしてもできないのだ。故に、過去と向き合う、痛みと向き合うことでしか前に進めない。こうした普遍的な心理まで深掘りしたところに新鮮さを感じます。
この演出を盛り上げるために、いろんな映画文法を自由に盛り込んでおり、それが単なるシネフィル向けリップサービスに陥ってないところも良い。例えば、空き地の一角で開催される小説講座の唐突且つ異様な雰囲気は、黒沢清『蛇の道』のいまおかしんじなりのアレンジと言える。また、強烈な時間省略による感情に訴えてくる演出は『幽霊と未亡人』での技術を応用しているように見受けられる。映画の中で「オマージュとパクリ」を議論するシーンがあるだけに、本作では「オマージュとは何か?」を突き詰めていると言えよう。

では、この映画は傑作なのか?と言われたら私は断固「否」と唱えたい。

創意工夫とテーマの斬新さは良いのですが、自分の技巧に酔いしれるあまり脇が甘くなっていたように感じたからだ。まず、本作では「過去」のメタファーとしてイルカのぬいぐるみと少年時代に囚われた男ヒロシが登場する。どちらも時代が変わろうと、何も変わらず、登場人物の周りに存在し続ける。どちらも重要なメタファーであるが、象徴するものが被っており、欲張りすぎな気がした。ここはイルカのぬいぐるみを排除して、ヒロシだけで過去を象徴させた方が鋭い映画になったと思う。

そしてここが致命的だ。映画の終盤で、唐突に阪神淡路大震災の追悼イベントドキュメンタリーが挿入される。そこにはヒロシが祈りを捧げる場面もあり心揺さぶられるシーンとして提示されるのだが、この映画は震災を描かずに震災の痛みを描く縛りを設けている作品だ。セリフにもほとんど震災のことは盛り込まれない程徹底しているのに、突然感傷的なノンフィクションを混ぜてくるところが卑怯だと思った。自分で設けた制約を、感情的盛り上がりで破ってしまうところは致命的だと思いました。

こう考えると、全体的に予算等の制約の中でいかに重厚な物語を生み出せるのかと知恵を絞って、技を駆使するうちに空回りしてしまい、物語ることよりも自分の技巧に酔いしれることに傾倒してしまった作品なのではと感じる。これに気づいていれば、風の吹くまま気の向くまま、フレーム内に現れては消える個性的な人々の描きこみまで深身を増したのではないだろうか?小説家になろうとしてなれない太助の分身として存在するあるキャラクターを掘り下げることできただろうし、地震中に夜の営みに励んだせいでイチモツが抜けなくなってしまった男がオネエになる展開も出オチにならなかったことでしょう。
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