ニューランド

リンダ リンダ リンダのニューランドのレビュー・感想・評価

リンダ リンダ リンダ(2005年製作の映画)
3.6
✔️『リンダ リンダ リンダ』(3.6) 及び『カラオケ行こ!』(3.7)▶️▶️

 『カラオケ~』は今年封切り映画への初参戦だった。まぁ、気になる映画はあるはあったけど、田舎はロードショーでも二本立てだったので、今の時点では余り情報もなく、お金の事を思うと…。巨匠の貴重作も今春は多いらしいが、そんな特別な存在は感じない方だし。
 『カラオケ~』は、環境年齢差、自己表現と客観評価、夢と現実と映画旧作、の境を溶かし、名匠のてすさびを感じさせ流石だったが、目当ては併映の20年前の作『リンダ~』だった。10数年追いかけ、都度都合で観れなかったが、やっとの感じ。ライブに近いは、やはり映画館で。すると思いのほか、フィルムと言うより高密度ビデオのように、柔らかさのない全てにライブ記録のように、フォローも含めた横縦移動はカーブはあるが、余分もも不足も少ない直裁直線的なものでや、90゜どんでんがフォルムとして饒舌にならず正確でくもりなく、逆光潰れや豪雨の打ちはそのままに悲劇性とは無縁に現実として来る。全てにクリアなトーンで、映画的な因果関係やストーリーては関係なく、顕在化した先入観のない眼が捉えた、都度都度の、気力高まらず、只無心・具体の欲も消え(只その説明的に力付けつる様描きは特に見せず見えず)、時間や場がどんどん狭められ追い込まれるも受入れ最短を見るだけの人物動き、自然な爆発とその待つ間の嘗ての仲間らによる下地作り偶々も誠実作り込みにより、観客側の爆発との相乗持続加速を誇張なくも凄い力で描き得てるだけの作。学園祭記録映画の画面内だけトーンが濡れ気味で、「大人と子供の繋ぎや準備として、単独で語られにくいも、その侭意味持つ時」と生徒に語らすのや、武道館や祝い品与えられる夢内、だけが前のめりに語っている。
 学園祭で、偶々の内紛でメンバー分解の女子バンド、エントリー中止申請から少しの意地で進む、ボーカルに韓国語留学生を意志疎通欠いた侭招き入れ、各々の本気に向かい合う相乗刺激、学内には他民族軽視などもなく、肩身狭い位置の彼女らを教師もあからさまでなく陰で厚遇し、異性慕いにバンド遂行意識が先んじ、貯まった力はストーリーや蓋然性とは別に現れてくる。学園祭の催しの最終に組まれた時刻を越えてもバンドは現れず、嘗て袂を分かった仲間らが必死に繋ぐ。稽古場で寝込んでた一堂が豪雨の中、時間オーバー・残り時間僅少の中、着くと不思議な歓迎とは別の高まりが待っていた。状況としては不可能性が一方で囲む緊張の中、演奏が始まると、複数要素が掛け合って静止点など消えてどこまでも続いてく。
 珍しいほどの、映画を外れた捉えにくいが、ほんものの手応え。評価に困る(こちらのストーリーものへの慣れで、のれない所もかなり)が、それがまだ固まってない映画というものの、多様な可能性を含んだ形なのだろう。香椎ら日本人俳優に嘘はなく、2000年くらいからか印象強さ特別な侭のペ・ドゥナも客演のレベルではない。絆は俳優間で作った所のものとは別物。
 この時代、昭和30年代前半生まれた時、TVはまだという我々とは違い、映像が構えなくても身体と呼吸の一部に組み込まれた、昭和50年前後生まれ作家が勢揃いし、只、眩しさを感じたものだ。この山下や富永、大森・~泉ら。同じ20C末デビュー、その頃同じく輝き出してた、昭和40前後生まれの、青山・是枝・大森らは、映像云々より学究型の色合いの正統へ向いてるか。年齢は後世代だが、西川もそっち向きか。50年代中盤生まれ以降は、別の語り口へ逆に舵取る老成味作家らか。
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 『カラオケ~』。20年後の、今度は中3の合唱部の部長(映画旧作のVHS検索の部の幽霊部員でも)が主人公だが、カラオケ大会大好きの親分に低点数者は趣味の始めたばかりで下手で痛いだけの刺青の実験台になるを免れる、歌がうまくなる法・教授で、ヤクザの組の変わった軽めもよく分からない若頭に付きまとわれ、全てが違って見えてく、年代柄特有でもある話。大阪地区コンクール終え最後の発表会控える中、自身の変声期による限界感、とんでもない世界へのギャップと恐怖、が思わぬ対等扱いと礼の尽くされかた、嘘も方便の円滑な大人世渡り術への得心、近道などない正攻法の自らも納得指南の思わぬ威力、こっちの苛立ちにも受け止め勘ぐらない大人対応に、過剰接触と見えて入り口だけで立ち入っては来ない隠された紳士性、そもそも全てが現実超えた夢の内では感覚帯同に、また隠された大きな闇疑惑祓えず、打ち解けてポーズない自然な流れへの浸り、ら彼の中に別世界を作ってゆく。選抜やリーダーシップ取りで狭い、部活を次第に疎かに。ヤクザカラオケ評定会と、合唱部発表会の重なった当日、一方の会場の異変に、矢も楯もたまらず駆けつけ、あの若頭の遺体搬送らしきを見かけたを問いただすと、当たり前に死が告げられ、ヤクザ相手に激昂し姿勢を正させる。控えてた歌も若頭の持ち歌を喉が潰れるまで投げ掛け、別の一体機運が。若頭は軽傷で姿現し、ジョーク・ユーモアの懐ろに和らぎと、それまでの半面の暗さと重さ予感の消失の平明さ、意外でもある透明さへ。
 山下のタッチは、鮮やかで強く鋭い、構図・サイズ・角度・スロー・回想・カーブも自在カメラワークやルック。その中で汲み上げきれぬ、真意とジョーク・評価と軽視・暗い背景や陰謀の有無・期間消失再出か端から不在だったのか、それらあらゆる境界の、意味剥奪軽妙洒脱とそれでも残る真摯向き合う性向。思春期限定を越えた滋味・不安の中の共感は、爛熟期作家の存在証明成り得てる。
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