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The Three-Sided Mirror(英題)の河のレビュー・感想・評価

The Three-Sided Mirror(英題)(1927年製作の映画)
4.6
https://www.cinematheque.fr/henri/film/48377-la-glace-a-trois-faces-jean-epstein-1927/

1人の男に対して、その男を愛した3人の女性が自身のその男との経験を語って行く。男は3人全員に対してほとんど愛情を示さず、不意に現れて不意に車に乗って消えて行く。

三面鏡というタイトルの通り、3人の女性が3パートに渡ってそれぞれの主観、記憶によってその男を語って行く構成になっている。映像がその女性たちの語り、記憶の中にある主観と一致する形となっており、語りの女性が変わるごとに映像のスタイルも変化する。

1人目は上流階級の女性で、その人からは男が静かで家父長的な人、女よりも仕事を優先する男として見えている。それが多重露光によるその男に対する老いても女を連れている姿のオーヴァーラップ、唇と受話器を連想されたモンタージュ、そして男が唇ではなく受話器を口に近づけるショットによって示される。

だからこそ、1人目の女性にとっては男が去った理由は男が女を雑に扱う人間で、自分が束縛的でありそれに対して仕事、自身の人生の目的を優先したからだと感じられている。映像としては、当時のラブロマンス的な映画に沿ったものとなっている。

2人目は、彫刻家の女性となっている。ここでは逃げた猿を追いかける女性の横移動が馬を走らせる男の横移動と一致し出会いを象徴する。そして女性と男が共に回転するシーンが関係性を深める象徴となるなど、動きの一致が関係性の深まりを表す。

2人目の女性は自立しており、男が頑張れない弱い人間であり、女性に優位に立たれ続けることに疲れて逃げたのではないかと考える。その女性の願望通り、男の会いに行く勇気が出せない様が映される。そして、1人目同様男が車を走らせ去って行く姿が映る。

3人目の女性は家庭に縛り付けられ働き続ける女性で、男はその女性の家に気まぐれに現れ去って行く。その不意に訪れる喜びやひたすら準備して待ち続ける日々が走馬灯のように早いカットによって表現される。

3人目の以降の映像は男との最後のデートの回想となっているが、その表現が非常に変わったものになっていて、フラッシュフォワードによって未来の展開が事前に示されたり、多重露光によって同時に示されたりする。それはおそらくその女性の先走った高揚感を表したもので、それ以外のショットも多幸感が際立ったものとなっている。

3人目の女性は男に対して優位に立っていると感じていた2人目の女性とは対照的に、男に対して劣等感を感じている。だからこそ、コップを落として割ってしまうショットが印象的に挿入される。

そして、4パート目としてなぜその男がそれら3人の女性から去っていったのかが描かれる。そこでは、祭りを楽しみながら、1人になれたと気づいた瞬間女性たちから解放されたように爆速で車を走らせる男の姿のみが映される。3人の女性の証言を通して考えられた様々な理由が無化される。

そして、男はそのまま鳥と衝突し事故を起こして死ぬ。そして、この映画が女性たちの証言のもと第三者によって再現されたものであることが示される。映画を通して男のことは動機を含めて何もわからない。そして、その男は鏡の中へと消えて行き終わる。

1パート目は男が車で螺旋状に下まで降り、下に行くにつれ車の速度が上がり暗闇が増していくようなショットで終わり、2パート目の女性は男と回転する存在である。そして、3パート目は女性が螺旋階段を上へ、明るい方へと上がって行くショットで終わる。それは理性、論理的な説明を無化するようなその男の世界、鏡の中の世界に入り込み、そこから元の世界へと戻って行く過程のようになっている。同時に、鏡の世界から現実に現れた男は死によって元いた世界へと帰って行く。3人の女性達、そして観客達が住む現実世界に対して、理性の通用しない世界が男の姿をとって現れ交錯するような映画となっている。

エプスタインは映画理論の書き手として活動しながら何作かアヴァンギャルドの作品を撮った後、一度当時の大手映画会社で商業映画を何本かとって、そしてその資金で自分の会社を作って実験的な作品を撮っていったらしい。その経験が、当時のテンプレを利用しつつも突飛な演出が差し込まれるこの映画の形式に利用されているように感じた。

3人目の女性のパートはムルナウ的な多幸感を持っていると同時に、ジガ・ヴェルトフ『カメラを持った男』やジャン・ヴィゴの『ニースについて』を経由してジャック・ロジェなどのバカンス映画につながって行くような感覚がある。

構成としては黒澤明の『羅生門』と共通しているけど、理性による理解、解釈が不可能であるという点で異なる。それが前衛ではなく当時の映画の枠組みにある程度沿った上で行われるので、物凄く変な映画を見たなという後味が残った。

Wikipediaに、ジャン・エプスタインはジャン・ルノワール、ジェルメーヌ・デュラック、アベル・ガンス、マルセル・レルビエ、ルイ・デュリックと共にfrench impressionist、first avant-garde、narrative avant-gardeの監督として多少無理がありつつも分類されると書いてあった。他の監督も見ていきたい。

現状、ドイツ表現主義に影響下にあり以降の様々なアヴァンギャルド映画へと分岐しつながって行く運動としてフランス表現主義とかの方が適切な名前のように感じている。ドイツ表現主義から内面を削除しようとしたから印象主義とかなんだろうか。だとしたら、以降の映画への分岐点としてしっくりくる気もするけど、どちらかというとより人間の深部へ向かう映画のようにも思う。
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