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ジョン・ウィック:コンセクエンスのambiorixのレビュー・感想・評価

4.2
上映直前に『ジョン・ウィック』シリーズのこれまでのあらましを3分ぐらいの尺にまとめたPVが流れるんですが、これはシリーズ未見の観客、および昨日の夜に『2』を見て、今朝『3』を見たにもかかわらず、早くも内容を忘れている(なんなら本作に関してもすでに忘れかけている)俺のようなアルツハイマー一歩手前の人間にとっては非常にありがたい親切設計です。と同時にあらためて痛感させられたのが、本シリーズにおけるストーリーの激烈な薄っぺらさ。なにせ3作の合計360分強のランタイムをたった3分に要約した映像を見ても、「うん、まあ確かにこんな話だったよな」と納得できてしまうわけですから、事態は深刻です。最新作『ジョン・ウィック:コンセクエンス』においてもその薄っぺらさは微動だにしておらない。なので、今さらこんなことを指摘するのも野暮というやつでしょうが、どんでん返しが次々と起こる起伏に富んだストーリーラインだったりとか、さりげなく撒かれた伏線が終盤でパズルのピースのように回収されていく緻密なプロットだったりとか、そういった視点を評価軸の中心に据えるストーリー映画至上主義的な観客にとって、本作は苦痛以外の何物でもないかと思われます。
それじゃあ、物語を語ることをほとんど放棄してしまったこの映画が、シリーズ最長の169分という異常に長い尺の中でいったい何をやっているのかといえば、そらもちろんアクションですよね。俺は個人的なアクション映画史というものを持っていないし、1作目の公開当時には映画に興味すらなかったので、このシリーズが映画史に与えたインパクトというのははっきり言ってよくわからない。遅ればせながら見た『1』に関しても、よくあるジャンル映画のひとつだな、ぐらいにしか感じなかったわけですけど、今回『ジョン・ウィック』マラソンをやってみて、監督チャド・スタエルスキの狙いがおぼろげながら掴めてきた気がする。端的にいえばそれは、古今東西のアクション映画にオマージュを捧げながらも、生身の人間の肉体でもって演じられるアクションの表現を限界まで様式化し純化することによって、既存のどの映画にも似ていないまったく新しい活劇を作り上げることだった。
侯爵に呼び出されたウィンストンが美術館の絵に沿って歩くあの横移動ショットは巨大な壁とちっぽけな人間を引きの絵で対比させてくるあたりがどことなくベルナルド・ベルトルッチを思わせるなとか、決闘について協議するシーンで塔をバックに飛び立つあのハトはジョン・ウー作品…ではなくブルース・リーの遺作を騙ったクソ映画『死亡の塔』っぽいなとか(笑)、元ネタになった映画を色々と探してみるのも面白そうです。しかしここで注目すべきは、過去の名作からの膨大な引用と同じぐらいの頻度で挿入される『ジョン・ウィック』シリーズのセルフオマージュなんですよね。イッヌさん、銃器うんちく、ジョンが車に轢かれてボンネットに乗り上げるくだり、クラブにおける逃走シークェンス、割られるためだけに置かれたガラス、象徴的アイテムである鉛筆…などなどこちらも挙げればきりがありません。作り手たちは、過去の名作のオマージュと自作のセルフオマージュとを等価で並べることによって、後者の側を名作が居並ぶ映画の殿堂へと組み込もうとしているのではないか。そして、ことアクションの面に限れば、この野心的な試みは成功しているように思います。
シリーズのなかでもっとも好きな場面のひとつが、ジョンと敵とがショーケースに入った売り物のナイフをつかんでは投げつかんでは投げする『3』の「ナイフのつかみ取り大会」で、あれ以上に面白い絵面はさすがに見られんだろうな、とたかを括っていたのだけれども、なめてましたね。ラウンドアバウトをぐるぐる回る車列の間で戦闘を繰り広げる凱旋門のシークェンス、見下ろし型2Dアクションゲーム風の画面を俯瞰のワンショット長回しで見せる廃墟アパートのシークェンス、そしてきわめつけはラストバトルの舞台であるサクレクール寺院にいたる222段の階段でもって行われる格闘シークェンス。侯爵の取り巻きに倒されたジョンが階段をゴロゴロゴロゴロ転げ落ちてゆく、『蒲田行進曲』も真っ青の階段落ちには、笑いと同時にもはや徒労感混じりの怒りすら覚えてしまうのですが(笑)、やっぱりこの様式化された過剰さこそが『ジョン・ウィック』シリーズの魅力でもあるんですよね。よくぞこんな絵面がポンポン思いつくな、と見ていてため息が出てしまいます。
個性豊かなキャラクターの存在も見逃せないところです。いま思えば、『1』〜『3』までの登場キャラクターには主人公のジョンを含めてあまり魅力的な人物がいなかったように思います。ところが最新作『ジョン・ウィック:コンセクエンス』では、この欠点が劇的に改善されています。中でもドニー・イェン演じる盲目の暗殺者ケインの設定および快演は、アクション映画における座頭市キャラの新たなスタンダードを確立したのではないかと思えるぐらいの素晴らしさ。部屋のあちこちにチャイム音の鳴るセンサーを貼り付け、音のした方向に正確な攻撃を加えてゆく斬新すぎる戦闘スタイルには、「これ、ことによると主人公を食っちゃってるんじゃないの?」と不安になってしまった観客も多いはず。劇中のほとんどの場面で対立しつつも、「家族を愛するひとりの人間」という一点でジョンと通じ合っているあたりも良い。強いていうならラスボスの侯爵は悪役のクリシェの域を出ていないかもしれない(ただし、自分はいっさい身銭を切らず、立場の弱いもの同士を争わせて悦に入っている傲慢なクズ、というのはある意味もっとも現代的かつリアルな悪党ではある)。
盲目のケイン、見たものを逐一メモしないと記憶ができない極度の健忘症の持ち主であろうミスター・ノーバディ、さらに『2』には手話を使う唖者の敵がいましたが、なぜこのシリーズにはハンディキャップを持つ殺し屋がよく出てくるのか。個人的な推測ですが、監督のチャド・スタエルスキや脚本家たちもなんらかの障がいを持っているのではないか。そしてそれはおそらくアスペルガー症候群(自閉スペクトラム)だと思うんですよね。この病気は、人とコミュニケーションを取ることを苦手としていたり、何かひとつのものに対して異様なまでの執着を見せたりする。銃器に対するフェティッシュだったり、敵にヘッドショットをかまして確実に絶命させないと気がすまないマイルールだったり、映画のテンポ感が野暮ったくなる弾切れからマガジンチェンジにいたるまでの流れをいちいち見せたり…などなど、『ジョン・ウィック』シリーズにおいてはいわゆるアスペ的な症状がしばしば見られます。「単なるガンマニアなんじゃないの」と言われればそれまでなのかもしれませんが、それだけに留まらない何か病的なものを感じてしまう。しかし、そのことがアカンのかといえば、むしろ逆ですよね。先述したように、この映画の作り手たちは、「普通」の作り手が気にも留めないような要素を徹底的に突き詰めて純化させ、オリジナルのスタイルへと昇華させる、という偉業を成し遂げている。病的なまでのこだわりがプラスのベクトルに突き抜けているわけです。
そうやって見ていくと、本編およびシリーズ全体のいたるところにアスペルガー的な意匠を見つけることができます。その最たるものが、殺し屋たちを絶えず振り回し続ける主席連合の理不尽すぎる掟でしょう。コンチネンタルホテルの聖域指定うんぬんやら誓印やら突然降って湧いてきた主席同士の決闘設定やら、これらは「こうしないと組織がにっちもさっちもいかなくなるからみんなで守りましょうね」といった一般的なルールというよりはむしろ、「こうなっているからこうなのだ」みたいな、トートロジー的で自分勝手なルールのように感じてならない。実際に権力者の都合で出たり引っ込んだりしちゃうし(笑)。その不条理さが頂点に達するのがラストの決闘の場面。なんだけど、個人的にはここが本作唯一の不満ポイントで、できることならキアヌとドニーの本気のどつき合いをもう一度だけ見てみたかった。フィニッシュブローもなんだか一休さんのとんちみたいでいまいちスカッとしなかったな…(笑)。
まあしかし、よくよく思い返してみれば、「殺された犬の復讐」という、(愛犬家の方にはたいへん申し訳ないのですが)取るに足らない出来事がすべての発端だったわけで、殺し屋業界を取り巻くアスペルガー的な俺ルールに巻き込まれて亡くなったたくさんの人たちのことを考えると、ずいぶん遠いところまで来てしまったなあ、と思う次第です。
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