河

Celles qui s'en font(原題)の河のレビュー・感想・評価

Celles qui s'en font(原題)(1928年製作の映画)
-
この監督の他短編もYouTubeにあったので見た。Filmarksに登録されてなかったけどどれも最高に良かったのでメモ。

『Danses espagnoles』(1928) 7分 4.0/5

タイトル通り、スペイン風のダンスを踊る女性を撮った短編で二部構成となっている。一部と二部の大きな違いは観客である男性達がいるかいないかである。

一部は女性を見る男性達がメロンを食べたりする姿がその踊りと共に音楽に合わせて機械的な動きとしてモンタージュされる。そして、最後はその踊りに対して乱雑に薔薇が投げられて終わる。二部は同じシチュエーションで女性が1人で踊っている。踊りは変わらず、最後は踊り終わった女性の表情を映して終わる。

きっと一部が実際の姿であり、二部がその踊っている女性に見えている世界なんだろうと思う。女性にとっては自身とその踊り、音楽のみが感じられていて、観客である男性たちは主観から消去されている。

『Thèmes et variations』の習作のように感じる。二つの作品は踊りを通した閉鎖的で機械的な現実から空想的な主観への飛躍という点で共通するように思う。


『Disque 957』(1928) 5分 4.8/5

回るレコードによる光の反射、その反射した光が抽出され組み合わされていくことで生まれる模様。そこにレコードに合わせて弾かれているだろうピアノ、そしてメトロノームが重ね合わさ、さらに窓から見える自然、窓を打つ雨が重ね合わされる。

レコードに合わせて部屋で1人ピアノを弾いているという舞台設定で、その部屋の中にあるモチーフが光の反射と共に組み合わされることでその孤独感や外に出れない感覚のような内面が浮かび上がってくる。そして、塗りつぶされた白が画面に迫り上がってくる。そこから一瞬のクライマックスが訪れ、ピアノを弾く手が止まって終わる。

5分という短い時間、部屋の中という具体的な空間の中で、光や影、モンタージュと合成によってそのピアノを弾く人の内面が浮かび上がってくる。その内面の閉鎖的な感覚はこの監督の他の作品とも共通する。短編全体の構成も含めて非常に良い。


『Thèmes et variations』(1928) 9分 4.8/5

バレリーナの踊りと工業機械の動きによって組み立てられている。バレリーナも機械も動きのある部分のみが抽出され映される。バレリーナが手や足を伸ばすと、その動きに連動して機械が動くように見える。そして、バレリーナが回り始めると、機械もそれに連動して回転し始める。バレリーナの踊りが盛り上がり、生き生きし始めるにつれ、その機械もそれに連動し生きているかのように動いていく。

バレリーナも機械も室内、そして工場内と同じ密室的な空間で回り続けている。踊りがクライマックスを迎える瞬間、バレリーナのいる部屋の窓、そして工場の窓が映り、そこから光が広がって行く。そして、その窓の先にある自然が映り、バレリーナの踊りがその自然が育つ姿と連動するようになる。ここで、バレリーナの顔が大きく映され、その顔は歓喜に満ちたような表情となっている。

そこにその終わりを命令するような鐘が鳴り響き、窓から光が消えて行く様が映され、バレリーナの連動は窓の外からまた窓の内側、機械へと戻される。そして、バレリーナは機械と共に機械的にひたすら回り続けようになり、終わる。

映像としての美しさに加えて、この監督に共通する外に出ることの出来ないまま、与えられた役割に強制的に従わされる感覚、そして空想や神秘的な身体感覚によってのみそこから抜け出し自由になること、自然に生きることができる感覚が非常にうまく表現された作品だと感じる。

ドイツ表現主義とシュルレアリスムの間にいる監督のように思っていたけど、この作品までくると絶対映画や純粋映画、そしてcity-symphonyなどとも近いものになっているような、音楽的で抽象的な感覚がある。

無音の存在するトーキーに対してサイレント映画では常に音楽が鳴っていることを考えれば、このような音楽的な映像感覚はトーキーの出現によって失われてしまったのかもしれない。


『Étude cinégraphique sur une arabesque』(1929) 5分 4.6/5

枯れ木に対して溢れるように光が差す。噴水やスプリンクラーから噴火するように水が噴き出す。尼僧が目を覚まし、その衣服が脱がれ干されているのが映される。そして、花が育ち始める。その花は歪み、光や水と共に不気味なオーラを帯び始める。その花が咲ききった姿と共に女性の苦しむような表情が映される。

『貝殻と僧侶』では閉鎖的な環境下で抑圧された存在である僧侶が欲望を目覚めさせて行く内部的な過程が描かれていたが、ここでは僧侶が尼僧となっている。殻に篭るカタツムリ、蜘蛛の巣によって尼僧、そしてラストの女性が囚われていることが象徴される。その欲望への目覚めと苦しみのようなものが花が不気味に開いて行く過程を通して描かれているように感じる。


『Celles qui s'en font』(1930) 5分 -/5

Fréhelの『Toute seule et À la dérive (all alone and adrift)』という曲に合わせた映像で、最初期のMVのような作品らしい。1930年。

二部構成で、一部はToute seule (all alone) であり、一人でカフェにいる女性が、他の女性が男性に捨てられる様を目撃する。その帰り道、その女性は何かに気づき涙する。二部はÀ la dérive(adrift) であり、男性に捨てられた女性の回想、そして川へと身を沈めようとする姿が描かれる。

曲の歌詞は男性に全てを捧げ従ったために行き場を失った女性の視点からのものとなっていて、その歌詞に連動した映像なんだろうと思う。フランス語がわからないとわからない作品なんだろうなと思う。
河