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ヤクザと家族 The FamilyのJFQのネタバレレビュー・内容・結末

ヤクザと家族 The Family(2021年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

昨今、「宗教二世問題」が取り沙汰されているけれど、だったら「任侠二世問題」もあるよなあと。観終えた後、そんなことを思う。
行き場のなくなった「二世」が「反社」と結びついた「公権力」を撃ちに行くラストも、22年7月の「暗殺事件」を予見させるし。
さすがは「社会派」の「新聞記者」チームだなと。やっぱり、クリエイターは無意識のうちに「時代の空気」をすくいとってしまうものなんだなぁと改めて思う。

さておき、あらすじを追っておく。映画は、さっきから書いてるように「任侠二世(綾野剛)」が主人公。彼の半生を1999年、2005年、2019年と3つの時代に渡り追いかけるものだ。
ヤクザの家に生まれた賢治(綾野)は、父親がシャブ中で死んだこともあり、クスリも暴力団も憎んでいる。ただ、だからといってマトモな人生を送れているわけでもなく、仲間とつるんで不良生活を送っている。
けれど、ある日、なじみの焼き肉屋で、ヤクザの襲撃事件が勃発。その際、やられそうな組長(舘ひろし)をつい助けたことや、シャブの売人とモメたところを逆に救ってもらったことなどがあり、舘組長の舎弟となる(それにしても舘組長の登場があまりにもカッケーので笑ってしまう)。
以降、組の若手として頭角を現し、キャバ嬢の由香(尾野真千子)と恋に落ちたりして成長していくが、ライバルの組とモメるうち、若頭(北村有起哉)の代わりに敵を刺してしまい刑務所へと送られる。そして14年後。
昭和のヤクザ映画なら「刑務所から出所」したヤクザは、ハクがつく。で、さらにストーリーが盛り上がっていく。だが、時代は平成末期(2019年)…。
すでに暴力団排除条例(2011年)が敷かれ、ヤクザの存続を助ける取引をした一般人は罰される状態に(映画では改正暴力団対策法を言うが、よりえげつないのはこっちだと思う)。
こうなると一般人は、ますますヤクザと関わりたくないため綾野も含めた舘組の面々は日常生活もしんどくなっていく(メインの仕事である風俗の用心棒も風俗店側が罰されるため仕事がなくなる)。
そのうえ時代は「ネット社会」。賢治と再会し、疑似夫婦的になっていた由香も、そのことがネットにさらされ職場を追放。綾野と共に組に入ったものの、今工事現場で働いていた竜太(市原隼人)も彼との接触がバレ「人生詰んだ」状態に…その後、彼らから拒絶され、行き場を失っていく綾野。そして、ある日、悲しいラストが…という筋立てになっている。

映画が描きたいのは「ヤクザ組織の変貌」以上に「我々の側の変貌」なんだろう。
つまり、ヤクザが変わったのではない。変わったのは彼らを見る「我々の目(認識)」なのだと。もっと言えば「法」が作られたからヤクザが変わったのではなく、我々の視線の変化が「そういう法」を生んだからヤクザが変わったのだ、と。

逆に言えばこうも言える。なぜ、かつての我々は何をしているかうすうす知っていながら彼らを「許容」していたのか?と。

この問いに対し映画はこう言っている。それは、かつて我々の社会には、彼らの存在をある意味「許す」ような「何か」があった。けれど、それがいつの間にか消えてしまったからだと。

映画で言えば、何度も描かれる「工場の煙突の煙」のように、かつて我々の社会にあった「何か」がいつの間にか「蒸発」してしまったのだと。もしくは、なじみの焼き肉屋の女将さんのような「賢坊は賢坊だよ」という感覚が、焼き肉屋の煙のように、気づいたらふっと消えていたのだと。
そういう事を描きたいのだと思う。

では、その「何か」とは何なのか?映画で描かれる「抱擁」に象徴されるものなんだろう。映画では、敵の組員を刺してしまい刑務所に入る綾野を舘組長が抱きしめて、こうつぶやく。「この親不孝もんが…」。また、映画のラスト「なぜ俺の前に現れたんだー」と突進してくる市原を、綾野が刺されながらも抱きしめる。

この愛と怒りが入り混じった抱擁。「許容」と「拒絶」の同居とでも言うべきか。こうした複雑な感情こそが「何か」にあたるものなんじゃないか?映画はそう言っているように思う。

つまり、かつて我々の社会には「あいつはひでえヤツだよ」「でもさ。世の中には”あぶれもの”がどうしても出て来るもので…」という認識があった。だからこそ「あぶれものだって暮らしていかにゃならんのだから、まあ、多少のことはしゃあねえじゃん」と。そんな感覚があった。

だから権力側(警察)も力づくで解体するのではなく、彼らを夜の街のガードマン(裏警察)として「生かして」いた。また、「あぶれもの」を夜の街に泳がせておけば「悪いヤツはだいだい友達」なのだから「犯罪」が起きても彼らから情報を吸い上げられると。だから、映画で言えば岩松了(警察)と豊原功補(組長)のような「もちつもたれつ」の関係ができていた。

けれど、そうした感覚が時代と共に蒸発してしまったのだと。何によって蒸発したのかを論じれば、もっと長くなるので、安直に言っておけば「グローバリゼーション」ということになるんだろう。
映画で言えば「地元のビル」が「ドンキ」に代わっていく様子。「そこにしかない街」が「どこにでもある街」になってく様子に象徴されるものだ。それは「そこにいる人達だけが分かるルール」重視から「だれもが分かるルール≒コンプラ」重視へと社会が変貌していくことの象徴でもある。

こうした我々の側の認識の変化が「必要悪」に見えていたヤクザを「単なる悪」に変えてしまったのだと。だから「単なる悪」の元に生まれた子供は「問題(ただただ可哀そう)」になるのだろうし、昨今、反社にせよ、宗教にせよ「二世」が「問題」になるんだろう。

なるほどなと思う。けれど、何というか、「優等生」すぎるかなとも思う。描きたいことが分かりすぎるので、誤読も含めた想像(妄想)の余地がない。「そういう見方があるか!?」というものがない。

そうなると、この映画が打ち出している「かつてあった”ファミリー”的なるもの」もインパクトが薄れてしまう。「かつて、そういうものがあった」というが本当にあったのか?と。「そう見たい優等生的な視線で振り返った過去」なのではないか?と。

言うなれば「東京リベンジャーズ」描かれた過去のような。「あの時代には、友たちの絆があった」というが、2000年代前半だぞ?「小泉ネオリベ改革」の時代だぜ?ホントにそんなもんがあったか?みたいな。うまくできすぎているが故にそんなことも思うのだった。
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