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Dillinger è morto(原題)のニューランドのレビュー・感想・評価

Dillinger è morto(原題)(1969年製作の映画)
3.9
☑️『デリンジャーは死んだ』及び『最後の晩餐』▶️▶️ 
 個人的には『男と5つの風船』が圧巻と云った後あまりに続かないくらい疎い、変成変生·不可思議も生活の滑りと地続きで切り離せないようなフェレーリ世界は、晩年は女性観等ストレートに物言いがなって鮮やか·小気味いいほどだが、最盛期の70年代前半には奇妙奇天烈な題材·テーマを扱いながら、日常の延長を失わず·ユートピアの側に開かれた未来や絶望があるのかというと、ニュアンスが非常にデリケートになっている。変に煮えきらない、世界にならない世界がある。その前後の作は、類人猿(風)、オブジェ、性器らの対象への距離感が消失し、内容的にも充分エキセントリックに突出もしてるのだが。
 本作で、冒頭「マスク強制、画一的になる近未来世界において、必要なリラックス·多義の抜道は何処に求めうるか」みたいな職場研究施設でのプレゼン原稿検討から始まり、一夜の自宅に籠もっての趣味·危なさ·しょうもない事が途切れず続く、生態·経緯延々が殆どで、ラスト、葬儀を終わった·タヒチに向う船の、料理人に採用されての解放が対称されるのだが、閉塞·頽廃を担ってる筈のパートの描き込みの、丹念さ·正確さ·デリケートさ·ユーモアがちと凄い。ゴダールの様に日常が観念世界へいつしか繋がってゆくわけではない。あくまでちまちまし、しょうもなく、発展もなく、ただそのまんま等身大の遊び模様が、ユニークもスマートな家屋内·家具の配置の中、90°·ドンデンに80°·40°を挟んだような、大CUも誇張なく普通の呼吸の流れでシックリ·勝手も優しい美学も跡付けできるように続き、いろんな道具·器具がアナログ的に、自在に空気馴染み·自力呼吸して絡んでゆく。当時の安易なズームがしかし品度持って前後し、デリンジャーやウォーホル的なモノクロニューズリールが入る。プロジェクター·三つ折りめ代用スクリーン·その間に入っての自己存在を歪めてのアピール、様々な皿と料理·鍋や包丁·の使い込み、そして紙包から銃取出し·分解·磨き·煮込み·再組立·飾付け、らもサイケやモノ本位にゆかずリズム·スタイル·ストイシズム·味わいがある。寝込んでる妻や、スター·ポスターに向かいタイツ姿の女中の、部屋にオモチャを扱うように訪ねる。そして枕被せ妻に銃弾撃ち込んでよりは、カメラやや高めに、しかし不思議に端正。全編ラジオやカセットから途切れず時代の音楽煩わしく。閉塞感と遊戯性よりも、生活信条的に、マメな生そのものの、昆虫的起源の伝わってきそうな、世界·リズムは突き詰められずあるが侭の、圧巻とはしたくない普遍の·あるいは普遍になる前の·更には普遍に反する何かがある。
 しかし、外へ出て湾から海·船にかけての方が伸びあるも荒い。
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 そういった印象は、日本公開の’74当時、人間のあからさまな食欲をテーマにした2大奇作として、ブニュエルと正面対決し、私の覚えている中では、少なくとも日本の気鋭の批評家はこぞってこちらの方を評価した『最後の晩餐』でもある(当時、個人的にはブニュエルがかなり優ってる感はした)。
 40数年ぶりに観たが、秀作たる条件を全て揃えてる稀なる作品のようにみえて、最終的に映画が終わると強烈なものまでは自分の内に残ってない意外さに驚かされる。当時の批評や宣伝に反し、とにかく静謐·飾りないまっ正直な映画である。料理やケーキの量や大きさ次々、常に食い続けてるどこかしらからのエネルギーの所在、女教師の性の一手引受の人のよさを超えた能動、時折のふざけ·叫びの発しの留まり無しや·糞尿が床を敷きつめる便所壊滅の·圧倒光景、等はあるが、映画スタイルも、人物の動きや感情の現れも、基本、乱れなく静かにひそやかに気品を貫いてる。カメラのカッティング·動きも少なめで、どんでんやフォロー控えめで、序盤の妙に抽象アート的各自宅、集まる郊外の館の美術·装置·配置のゴージャス·風格の歴史体現性、をまんま活かし尊重し、前後力ないズームが時折まさぐり、小津的顔の真正面的CUの美しく素直なはめ込み、が少しだけ目立つくらい。楽屋噺的な、俳優名と同じ役名、憧ハリウッド扮装、バレエ·ピコリ、春川ますみ? 放屁やお触り、も浮わつかない。
 そもそも、4人の社会的·家庭的立派な地位を持つ初老の紳士らが、うちや職場を後にする時相当の覚悟を感じられるが、それが、食い続けて死ぬ、という破天荒·破滅的な目標実現に確信を持って進んでく強いものとは、その後もはっきりとは感じられぬ。「食(欲)以外は全て付随的な事」「皆で一緒の場で寝る事」「食ってく中で死ぬなんて。(その前に性的に)やれなくなるなんて嫌だ」部外者へ結婚を決意したり、その相手に仲間への浮気を認めたり、途中脱退したり、苦痛から解放の体内ガス抜きをしたり、あくまで性の充足も併行させたり、考え得る楽園の求め·近づき·持続·実践を、俗世界を離れて自然体も、金に飽かせ、身体を看つつ、命を賭して個人個人に終点は委ねて実験してる観である。死と生は、内からも外からも強制されたものではなく、個人の生活の理念や実感とその反発否定からの、選択·決意の範囲内の、その時々と積重ねの力による、通過点というか先行きに見える。詫しく澄んだ心の優しみが拡げ·下す、決心のあり方が、外からの情けない印象に反し、潔く清々しい気もする。ある意味、限りない自然で美しい作品ではあるけれど、観終わった後ちと自分の身のもってゆき方には困ったりもする。ユニークというのが一番ピッタリするこの期のフェレーリである。
 何かの併映で、この2作の間の作品、ドヌーブがワンコロになる『ひきしお』から観て、予備知識なかった分生まれた、素直な好感が続いてはいる。
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