なべ

太陽がいっぱいのなべのレビュー・感想・評価

太陽がいっぱい(1960年製作の映画)
4.8
 リニューアルされた新文芸坐での初観賞は「太陽がいっぱい」。
 ああ、なんて素晴らしいのだろう。懐かしさと切なさで胃が痛くなるわ。今どきの映画に比べると、少し舌足らずだったり、ぎごちないところはあるんだけど、それでも名作の名にふさわしい力強さと輝きを今も放ってる。

 正直、出てくる奴らはみんなロクなもんじゃない。金持ちのボン、フィリップはブルジョアクソ野郎だし、ヒロインのマルジュも性格に難あり。そして主人公リプリー(欧風だとリプレー)は…フィリップの父親をして「奴は卑しい」と言わしめる存在。人を指して卑しいなんてワードは使いたくないけど、彼の挙動は確かに卑しい。だがこの卑しくも美しい青年がめちゃくちゃ魅力的なんだなあ。
 フィリップに軽んじられ、疎んじられ、やがて虐待されるようになっても、小判鮫のようにくっついているところがやっぱりあさましい。あさましくてさもしくて卑しい…普通なら嫌悪感しか抱かないはずなのに、この主人公はなぜか応援したくなる。できれば彼の犯罪を成就させてやりたい、そう思わせる魅力がアラン・ドロンにはある。転んでもタダでは起きない厚かましさというか、ゴキブリ並みの生命力というか、やってることはネガティブなのにポジティブなエネルギーに満ち溢れてる。そんな美青年が破滅に向かってひた走るとか、こりゃ堪らんよね。
 クローゼットでフィリップの服や靴をこっそり身につけて声色を真似るシーンの危うさよ。そしてそれをフィリップに見られるバツの悪さよ。この頃のフランス映画って、こういう底意地の悪い描写が結構あって、すごく共感性羞恥を刺激するのね。なんというか恥ずかしいシーンを印象的に見せるのがやたら巧かった。きっとこういうところが日本人の琴線に触れたんだろうな。
 持つ者の傲慢と持たざる者の屈辱のコントラストが激しいったらありゃしない。だが、フィリップがトムの殺意に気づいてから、このパワーバランスが一気に逆転するのね。見下してた者の冷酷さに気づいて、怖気を震うおぼっちゃま。慌てて犯行を思い止まらせようとその場しのぎの提案を始めるんだけど、狼狽がハンパない。虚勢を張ってても恐怖が透けて見えるのだ。いい演出!
 そして迷いも葛藤もない一撃。最高! 罪の意識などないソリッドな殺意。殺しの直後、食欲を見せる描写が妙にリアル。殺した後にゲロを吐くなんて描写は掃いて捨てるほどあるけど、逆をいってるんだもの。こういうところにリプリーの生命力を感じちゃうんだよな。
 リプリーとフィリップ二つのアイデンティティを行き来しながら、とうとうマルジュまで手に入れて幸せのゴール。
 そこまでして手に入れたい女性かと思うが、たぶんマルジュに惚れてるわけではないんだよな。思慕ではなく、むしろ執着。フィリップのすべてを手に入れるって野望が、マルジュ込みなのだろう。執着はあるけど愛はない、愛のない偽りの幸福感が卑しい犯罪者リプリーにはお似合いなのだ。
 満面の笑みで下手(しもて)にはけるエンディングの鮮やかなこと。観客はそちらには絶望しか待ってないとわかっているが、リプリーは知らない。慟哭するシーンや逮捕シーンなどなくとも、リプリーの人生が終わったことがわかる。ニーノ・ロータの叙情的なテーマに後押しされて、痛烈な皮肉がなんとも言えない後味を残すのだ。

追記
 昔観たときは、フィリップとリプリーの関係に同性愛的な匂いを感じたけど、今回観直すと、そこはハイスミスに敬意を払う程度にとどめて、むしろ注意深く取り除かれてるなと感じた。いま、つくるならBLは必須要素だけど、そこを含めちゃうと、結構なノイズになってたかもしれん。さすがルネ・クレマン!慧眼だわ。

さらに追記
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