岡田拓朗

あのこは貴族の岡田拓朗のレビュー・感想・評価

あのこは貴族(2021年製作の映画)
4.4
あのこは貴族

映画を観ていると、日常の中で考えてることや感じてることの答え合わせをしてるような感覚になることがある。
『あのこは貴族』は、自分にとってそんな映画だった気がした。

同じ空の下で生きていても、その中に階層が存在していることは否定できない事実で、それはそれぞれの世界があるとも言える。

この作品では、大きく3つの階層の人たちにわかれ、その階層の中でもそれぞれに異なった生き方をする人たちが描かれていく。
家族が政治家一族である幸一郎の層、家族が開業医である華子とバイオリニストである逸子の層、一般的な家庭に生まれた美紀と里英の層。

階層の違う人たち同士では見ている景色や抱いている価値観や考え方、そこから生活に至るまでのあらゆるものが異なっていて、それらはお互いになかなか理解し合うのが難しく、ともすれば分断になりかねない。

でも本作では、そういう分断がなく、それぞれの邂逅から自分の生き方に対する指針や意思を模索しながら育んでいき、全く異なる価値観同士が邂逅することによるそれぞれの成長が垣間見え、自分とは違う価値観も含めた多様なものに触れることの大切さを実感できるような作品となっていてとてもよかった。

どんな家庭に生まれるかで自分の生き方が決まる人もいれば、成長していく過程の中で色んな人やものに出会って、色んなことを経験して、想像してたものとは全然違う生き方をする人もいる。

同じ場所、同じ価値観のもとでずっと生きていると、「そこからの景色=世界の全て」であると勘違いする可能性がある。
行き過ぎると、これが当たり前でこれこそが正しいとして、他者を否定する方向に舵を切ってしまうことにもなるだろう。

でも実際に人間も世界も、そんなに単純にはできていない。
ずっと生きてたら、その場所の中で司ってるものに違和感を感じたり、本当にこれでよかったんだっけとなることがあって…

そんな悩みながら異なった生き方を模索する色んな階層の人たちが邂逅する中、特に同性(女性)同士の関係の描かれ方が素晴らしかった。
階層によるすれ違いが起こりそうながらも、それぞれが肯定的に交わろうとすることで、階層が異なる同士の中にも、ちゃんとお互いに必要不可欠なものとして繋がりが作用している。

自分にとって、生き方や考え方のスタンスとして好きだったのは逸子で、お人柄として好きだったのは里英で、最も親近感が湧いたのが美紀で、最も相容れないと感じたのは華子だった。
でもそれぞれに選んだ道の中でみんな頑張っているし、誰かを陥れたり憎んだりすることなく関わり合っていたこともあってみんな素敵だったし、こういう関係の紡がれ方や生き方の変遷こそ理想だなと感じた。
特に華子と美紀が新しい世界を知って、それを否定することなく、自らの生き方にちゃんと活かしていってるのが素晴らしかった。

意外と人って自分はどんな生き方がしたいだろうと考えることなく育つことがあると思っていて、それはこう生きることが当たり前であるという思い込みやそれ以外の価値観が入らない環境があるからだと思う。
生きていく中で何かに違和感や疑問を感じたり、本作のような価値観の異なる人との邂逅がないと、家族の人生をトレースした生き方になるんだろうと思うし、そうならざる人もいるんだろうなと。

そんな小さい頃からあるべきに囚われてしまって自分の意思や愛について諦念していた幸一郎にも、救いの手が伸びてくれてよかった。

それ以外にも、語り過ぎない脚本、大学内における内部生と外部生の住む世界が違う感じ、内部生から見る外部生への共感、階層が高低の構図となって映し出される演出(特にラストシークエンスの構図とそれら全てが共存できる可能性を示唆する演出が最高)によって、程よい余韻と鑑賞者が入り込める余地を与えてくれる点も素晴らしかった。

こういう作品は、結婚するかしないか、仕事か家庭かで歩む道を比較されがちだが、結婚のその先にお互いが譲歩し合ったそれぞれの自己実現があってもよいのになーと思う。
まあ本作では設定的に厳しそうだけど、少なくとも自分にとっての結婚はそうでありたい。

P.S.
山内マリコさん原作の世界観に、門脇麦さんが本当にハマるなーと改めて思った。
高良健吾さん、石橋静河さん、山下リオさんと脇を固めるキャスティングも邦画好きにはたまらなくて、キャスティングを入れ替えても成り立ちそうだとも思ったのが印象的。
山内マリコさん原作の映像化では、『ここは退屈迎えに来て』と『アズミ・ハルコは行方不明』も観たことがあるが、地方→都会と場所を転々として生きてる人とずっと地方で生き続ける人の相容れなさを描くのに長けてるというか、そこへの思い入れ、もしくは執着が強い方なのかなと感じる。
岡田拓朗

岡田拓朗