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タミー・フェイの瞳のotomisanのレビュー・感想・評価

タミー・フェイの瞳(2021年製作の映画)
4.0
 タミー・フェイの瞳を守るのは付け睫毛、彼女を見る人がいる限りこの衛兵が列を解くことはない。その外堀として永遠に消えないアイラインと眉。出城のように神の愛を説く口周りには黒い縁取りがありました。
 死ぬまでテレビに映される覚悟を決め、アートメイクも施して神に愛されたいタミーは他人に分けてあげたいほどのその欲求をビジネスなどとは思いもしないで?たぶんそう言うだろうが、実際分け与える。

 ブラウン管の向こうの人はそんな言葉を誰が叫んでいると思うに違いない。それはタミーである、と知らせるために500本ばかりの走査線に分割されたその顔をタミー以外の誰でもないとアタマに刷り込んでもらうべくウォーホルのマリリンも顔色なしの永久メイクでタミーは挑む。
 他人の顔顔顔が茶の間までこれでもかと押し寄せる時代、この顔を見たら●●●を思い出してねと、それが洗剤かビールか神様か知らないがタミーもまた遅ればせながら時流に乗っかっる。
 素顔はおろか映画用の顔も押しやってウォーホルが「マリリン顔」の連発で市場を圧倒したように、神に愛されたい人たち2000万(自称、WWⅡでの動員数の2倍)のこころを圧倒した厚化粧のタミーは、それがありがたくも献金になり、献金は夫婦で夢見た神も嘉したもう事業と施設の資金になり、併せてごく普通の俗人としてのこころも満たしてくれるのも何の不都合とも思わない。

 普通というなら仕事にかまけ妻を顧みない夫になったジムも浮気相手への口止め料に献金を流用するのに何の不都合もなく、誰の差し金で浮気相手がテレビ告発に踏み切ったのだろう?テレビ事業もその他赤字事業も清算を泣きついた先のライバルたちに乗っ取られて挙句、刑務所での「清貧」を学ばされる。
 こんなあらましからは子供のころのフェイが教え込まれた母親の離婚の因果が娘のフェイに報いたという因果応報そのものとも見えるかもしれない。
 けれど、たぶんそうではない。相当するのは荒野のキリストを襲った業魔との闘いである。救世主であればそれに敗けないのが当たり前、一介の伝道者はそれに敗けてみて自分を見つめ直すところから再起しないと。「あの頃は浅はかでした」と述懐する初老の男女に実際、人は惹きつけられるのだ。

 夫がそうならフェイもまた半分見世物状態の我が身を投げ出して現代アートのような顔を看板に、軽蔑さえも糸口として人のこころにドブ板踏んで分け入ろうとする。この一度はケチの付いた伝道が相変わらず彼らを駆り立てている事に「神に愛されたい」の根深さが知れるだろう。
 罪を負おうと冒涜と言われようと神がなくなるわけでないのだから、何度でもその愛に与りに戻っていくのだ。アメリカ人の本能のようなエンタープライズ心がくすぐる現世の成功者の夢と伝道者としての神をより多くの皆さんへ、というこころとが食い違わない次元を求めるのが新たなエンタープライズであるかのような気さえしてくる。
 ここまでくるともう白粉お化けだろうと俗悪の極みと言われようと関係なし、誰かが自分を見てくれると信じればにっこり笑うのがピエロの魂なら同じく口の周りに黒輪っかをつけてにっこり笑って神様もご覧でしょうかと愛を説く内に斃れたいのだろう。
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