鰹よろし

ザ・スパイ ゴースト・エージェントの鰹よろしのレビュー・感想・評価

3.3
 「リクルート」(2003)、「キングスマン」(2015)、「レッド・スパロー」(2018) の様な養成学校に通いこれからスパイになって活躍するお話かと思いきや、「ソルト」(2010) の様なもうすでに潜入している人たちのお話...

 命を狙われ逃亡することになったアンドレイとマーシャの逃亡劇にて魅せる息の合ったアクションの数々は心地良く惹きは抜群。直面する事態に対し、共通のセオリーに則る行動とそれ故の意思疎通を図る2人の姿を描き出す事で、ユースなる養成学校という場で同じ時間を過ごした事実を揺るぎないものであるとする手際は見事。

 しかしこの導入において互いが離れていた期間で生じた何かしらの差異(ギャップ)を描けなかったのは痛手ではなかったか...

 何かしら背景のある人間(孤児)たちがユースなる養成学校に集い新たなコミュニティを形成し、その後卒業と共に離散し各国の潜伏先でまた新たなコミュニティを形成し15年という月日が流れている、という前提ありきの物語であるはず。

 潜伏先のその国ならではの文化における習慣は、食事や衣服は、仕草といったものは無いのか? 異国異文化におけるギャップはどう克服したのか、それともしていないのか。

 潜伏先の仕事において身に着けた、いや身に着けなければならなかった知識や技能は無かったか?

 物事を円滑に円満に進めるために築いた職場おける環境は、上司や部下に同僚は、私生活における知人や友人の存在は? 都合の良い駒となってくれる人脈は?

 こういったユースでは教わらなかっただろう事柄、訓練と実践とでの変化が、久しぶりに再会したはずの2人の間には一切描かれず、互いが互いに共有できているモノだけで完結してしまっているのが気になる。彼らは互いに全てが全て以前のままではないはずなのだ。互いに知らないモノがあって然るべきなのだ。

 パスワードという設定でユースにおける繋がりが隔絶されたものであることは了承できる。しかしユース卒業後の潜伏先における繋がりは無視していいものであったのだろうか。

 ユース卒業(及び中退)後から今までに彼らがそれぞれに過ごした月日を慮る事象を描かずして、潜伏という前提から事件の真相及び動機へと落とし込むことはできるのだろうか。

 この作品は周囲の環境から個人を説くことはせず(省略しているのか?)、繋がりを閉ざし孤立した個人からの発信のみによってお話を進めていく。そしてその閉鎖的な個人の内面に巣食う病巣とも言える男女及び親子の愛を問うことによって物語(全体)を紡いでいく。

 これは “個人” や “個性” というところにアプローチするに当たってのロシアの気質(気品とすべきか)の問題で “強味” の部分であるのだろう。しかし比較という感性に過敏な性分であると、そのアプローチはどことなく後出しじゃんけんに感じてしまうし、それを逐一説明しなければいけなくなるがために何よりもテンポを損ねてしまっていると感じる。

 お話へのアプローチのさせ方はおそらくは感性の違い故しっくり来ない面があるものの、銃撃戦等におけるアクションや美女の画力は目を見張るモノがあり、これからのロシア映画の期待を煽るモノだった。


「リクルート」(2003)...「ソルト」(2010)...「顔のないスパイ」(2011)...「ブレーキ」(2012)...「キングスマン」(2015)...「フロンティア」(2018)...「レッド・スパロー」(2018)...「アトラクション 侵略」(2020)...
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