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スパイの妻のmiyuのレビュー・感想・評価

スパイの妻(2020年製作の映画)
3.0
自分自身の信じる正義のための大きな策略を実行する実業家と、その妻の話。
人と人の間にある本当のこと、というのは、自分の中にしか存在し得ないのかもしれない。自分の人生、自分の計画、自分の感覚のようなものはいつも自分だけが理解できるものであって、齟齬や不足や余剰は自分自身以外の個体であるかぎりどうしても致し方ない。
一方で福原がそうして個人で行うこととなる計画は、そのようにそれぞればらばらでわかりあいどころのない人間たち(あくまで相対としての)に対して福原が心を寄せているから為されていることであるということには留意したい。福原は孤独を抱えながらも、同時に膨大に存在する他者に対してその孤独ゆえの愛情のようなものも持っていた。その対象にはさとこも含まれていることだろうと思う。さとこは終盤、福原の計画の周到さに感服し、自分がそれに到底至っていなかったことへの失望を浮かばせたことであろうが、その後の日々において、そのような形の福原の愛を確かに認知していたのではないか。
「私は狂ってなんかいない。でも、そのことこそが、この国においては狂っているということなんでしょう」というさとこの、精神病棟での言葉がどうしても印象に残る。自身の狂い方、気付き方やその対象は人それぞれにやっぱりばらばらで、だからこそどうしても孤独だ。それでも、「狂っている」というところで少しでもつながり、「信じる」ということができる一瞬や一部があったなら、幸福なのかもしれない。それに、「狂っている」というのは人間の根本的な性質に限らない。第一、さとこも元々は「正義よりも自分たちの幸福のほうが大切だ」と強く主張する人だった。そのさとこが、福原の孤独を知り、そこに自分の孤独を重ね合わせ共鳴することができる部分があることの喜びから、いつしか「狂っている」と言われるような、正義のほうにより行動を規範されるような人物となっていった。だからこそ、「狂っている」ということはこの社会や地球において永続するとは限らず、自分自身の正しさを持ってしっかりと狂うことができたらよい。そして、福原と重ね合わせた孤独というのは、全てがうそであったわけでは絶対になく、ほんとうにつながり合ったときもあったし、福原の人生に喜びやぬくもりをもたらしたことはたしかだろう、と思う。
それにしても人間はこうもむごくなることができるのか。私は、そんな時代に存在するとしたら果たして生き延びていられるだろうか、生き延びようと叫べるだろうか、と思った。
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