ーcoyolyー

ハミルトンのーcoyolyーのレビュー・感想・評価

ハミルトン(2020年製作の映画)
2.5
あーこれオバマ好きですわ。極めてバラク・オバマ的。全く褒めてません。優等生が必死にイキってるの見ると痛々しくてしんどいじゃん、それをさ、黒人が白人の目を気にして媚び媚びしながらやってんの。「理解ある白人」プレイへの恰好のズリネタ提供してるだけ。「私は有色人種の問題にも目配せして差別を憂慮しています」という特権階級しぐさに全力で尻尾振ってる。今現在の最先端行ってる奴隷根性。こういう音楽使うなら日本でいうと休日にパチンコ行って帰りについでにドンキ寄るような層にリーチしなきゃいけないと思うんですよ、ヒップホップってそういう土壌から生まれた精神だろ。その層がこれ観て楽しめると思うか?私にはこれはこれで一種の文化の盗用に見えますね。開始30分も経たずに挫けそうになっている。最後まで観れるんだろうか。

追記:なんとか最後まで観た。これに何の捻りもなく穿つこともなく素直に感動するのが「世界」を牛耳る感性。私はいつもこういうの鑑賞してわかってる感出してドヤってくる何もわかってない輩への愛想笑いで気疲れしてしまう。今回もやっぱり非常に疲弊しました。

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精神性にどこか通じるもの感じたので新国立劇場まで観に行った『ガラスの動物園』感想もここについでに貼っとこう。イヴォ・ヴァン・ホーヴェの方がもっとずっと性格悪いし性根腐ってるけどな!

(以下2022年10月14日記)

9/29に『ガラスの動物園』を観てからずっと腑に落ちない、釈然としないものを抱えていて、でもこれは絶対に大事なものだから無理やり吐き出すのではなくきっちり咀嚼したい、全部消化したい、と、寝かしたり向き合ったりしながらようやく言語化できるところまでやってきました。

結論としてはイヴォ・ヴァン・ホーヴェの性格や底意地の悪さはラース・フォン・トリアーに極めて近い性質のものでもう近寄らなくて良い、ということになります。

私が激しく抵抗を覚えたアマンダの人物造形、ここは周囲の人々が家族の特定の人物の話になると途端にバグる現象、ドン引きしながらもちょくちょく遭遇しているアレに私もなっているのではないかと、脊髄反射で私が感じていたものを書き殴って吐き出すのではなくしばらく外に漏らさないように閉じ込めていたのですが、あのアマンダの何が嫌だったのかというと「レイプ加害者にも加害者なりの言い分がある」的な物言いに近いメッセージがあったのがダメだったんだと思う。いやねえよ。そんなもんねえよ。私は殺人に関しては加害者にも言い分がある、ということを場合によっては認める立場ですが、レイプと虐待に関しては決して認めないよ。それは自分が当事者であるかどうかではなく、その行為を働く側の覚悟の違いだ。殺人者というのは言い訳できない覚悟を背負っている。一線を超える覚悟だ。私が想定しているのは尊属殺重罰規定の見直しの契機になった事件や美幌の女子高生、直近では奈良で元首相暗殺のケースですけれども、その殺人者たちの背景を知るとそこに至るまでに助けられなかった我々社会の責任でしかない、と思わざるを得ない。そういうことがある。
でもレイプや虐待は違う。それを行う者たちは殺人という一線を超えないからダラダラと言い訳をする。被害者を責め立て落ち度を捏造して自らの行為を強引に正当化する。虐待加害者は必ず「愛している」という言葉を吐く。レイプ加害者も大概は似たようなものだ。自分が行う暴力への覚悟がない。逃げ惑う。殺人という一線を超えない限りそういった卑怯は罷り通る。狡猾な加害者に社会は容易く手玉に取られ被害者の口は塞がれる。だから私はレイプと虐待に関しては決して加害者に言い分など許さない。いっそのこと殺せ、殺意をもって殺せ、殺せないなら虐待もレイプもするな。そう思う。殺さない程度の暴力は殺人よりよほど罪が重い。自分の行為に対する責任を持てない、トイレットペーパーやポテトチップスをほんの少しだけ残すのと同じような腹立たしさ。せめて自分のケツは自分で拭け。やり散らかした挙句被害者に尻拭いを押し付けるような加害者の言葉など誰も取り合わなくて良い。

そういう私のものの考え方の土台があるのでアマンダにはアマンダの言い分がある、みたいな姿勢は一見フェアなように思えて実のところ害悪でしかない。でも大変巧妙で狡猾で精巧に設計され構築されていたのでそこに考えが至るまで大変骨が折れた。アマンダは加害者でありそこに君臨する暴君であるのにイヴォ・ヴァン・ホーヴェの提示する「弱者しぐさ」が正しいというか押し付けられると拒否するのが難しい構造になっていた。それとイザベル・ユペールの個性の相性が良いというか悪いというか、大竹しのぶって普通の人の狂っている変な部分を凝縮して表現して大盛りてんこ盛りで出してくる人だと思うんですけどイザベル・ユペールは逆で狂っている変な人の普通な部分を拡散して妙にフラットに見せてしまう人で、イザベル・ユペールのそういうところは普段映画を観ていてむしろ好ましいと楽しんでいたのに今回は無理でした。アマンダの毒気を抜かれてしまうと困るんだ。毒親は毒親としてそこにいてもらわないと成立しないんだよ。プロレス観に行ってヒールがヒールとして君臨してくれないと困るじゃん、それと一緒なんだよ。ヒールにはヒールの言い分がある、というのは『ガラスの動物園』ではない他の舞台でやれ。『ガラスの動物園』のリングの肝を壊すな。

この演出家、ユニヴァーサルが持ち味ということになってるみたいなんですけど、ユニヴァーサルというかグローバルというかそうやって開いて良い部分と、それぞれで固有のローカルな決して開いてはならない部分ってどんな作品にもあると思うんですよ。なのに決して開いてはならない部分まで開いてしまっている。最大最低最悪の形で。

それがアイリッシュで学校の人気者であるジム役へのアフリカ系俳優起用です。

これも本当に胸糞悪い話で、昨今のポリコレ事情的に舞台でアフリカ系を何の気もなく起用するっていうのはむしろ推奨されているでしょう。その起用法に対して何か物言うのは理解がない人間として嘲笑されてしまう。そういう風潮を逆手に取って決まり悪そうに張り付いた笑いで誤魔化そうとする観衆を馬鹿にしてるんで。つくづく底意地が悪い。それがトムならまだ良かった。トムは人種が規定されていないから。アマンダの息子としか規定されていないから。南部婦人の息子が黒人、という要素を付け加えるならまだ良かった。物語に広がりが出る。でもジムが黒人であるのは物語を壊す。

この起用に対して演出家がユニヴァーサルという理論武装をしてるらしいんだけど、それ一番ユニヴァーサルにしてはならない部分を暴力的に開いてしまってる強く糾弾されなければならない行為です。何故ならアマンダという米南部生まれ育ちを誇りにしている1930年代の南部婦人が黒人に対してまるで黒人ではないかのように振る舞って親切に恭しくもてなすというのは非常に危険な歴史修正主義に繋がるからです。私たちは自分たちの都合の悪い居心地の悪い座りの悪い事象に対してそのまま都合の悪い居心地の悪い座りの悪い状態で抱え込む強さをほとんどの人が持たずに何とか自分が悪くないよう認識を捻じ曲げてしまいがちです。当時の米南部の人権意識というバツの悪さ、決まりの悪さもほとんどの人は向き合いきれずに逃げてしまう。その時にあのイザベル・ユペールのアマンダが黒人にああやって接してしまうのを見るとその優しさ鷹揚さに感動してしまう。実際はそうだったのかもしれない、そういうことにしておきたい、そうだそうしよう、となってしまう。こういう逃げの感情の行き着く先が「ガス室はなかった」「従軍慰安婦はいなかった」であって、イヴォ・ヴァン・ホーヴェはむしろその道へ巧みに観衆を誘導している。なんて人間性がひん曲がっているのだろう。『ガラスの動物園』という作品の根幹を成す部分でしょう、アマンダが南部婦人であることは。ここを分かりにくい形で変質させてしまうのは全く字義通りの意味でこの作品をレイプしている。SNS辺りで軽々しく使われるその表現で収まる範囲はなくて、生々しく、絶望的に、作品を、我々を、テネシー・ウィリアムズを破壊している。被害を被害と分かりにくく表現しながら暴虐の限りを尽くしている。レイプの現場を笑いながら観ている観客が悪いというより表面上の薄っぺらい滑稽さを提供して誘導している演出家の方が悪い。あいつそこで笑っている鈍感な人間と凍りついている人間に客席が分断されている状況を作り出して楽しんでいるんだよ。私だって対抗しきれず抵抗しきれずその場で思わずスタオベしたんだよ。レイプの現場を目の当たりにしているのに、そこで混乱した情緒の横溢を自分で理解できず整理しきれずに、俳優陣の熱演やラストの姉さんエンドに押し切られて自分が感動しているんだと勘違いさせられて立ってしまった。本当はその舞台に賞賛を送ることなく立ち去るべきだった。でもそう判断できなかった。そう結論づけるまで二週間かかった。私のような人間でさえ手玉に取られて騙された。場の空気に飲まれた。悔しくてしょうがないです。レイプ加害者の言い分を私も呑んでしまった。あれだけ気をつけていたのに。悔しい。

私は『ガラスの動物園』がどういう終わり方をするのか知らなくて、そこでトムが語りかけるのが母ではなく姉であることを知らなくて、常に家族の中で軽視されがちな姉に、姉だけに弟が語りかけているということに姉として絆されてしまって、弟だけは何とか守ろうと家庭内で戦ってきた姉としてはもうそこで情緒が追い付かなくて感動してしまって、そこで涙が出てスタオベきっかけになってしまったんだけど、これは原作通りなので完全にテネシー・ウィリアムズに捧げるものでしかないんだよね。なのにまるでイヴォ・ヴァン・ホーヴェの手柄みたいになってるのもちょっと許せないです。完全にあいつそれを狙い澄ましてやっているから。

イヴォ・ヴァン・ホーヴェのマイノリティ性ってゲイであるということしかなくて後はもう強者以外の何者でもないですし、特に植民地主義というか侵略者である宗主国しぐさも酷いなと思いますが、この人ポリコレ的な責められ方した瞬間にゲイであることの弱者しぐさを完全に展開する道筋持ってそうで厄介極まりない。被害者意識の暴走が何よりタチが悪くてこの人がこうなったのもそれっぽいなと考えると今後一切関わりたくないですね。

私プルシェンコが嫌いで大嫌いで何が嫌いかという部分がウクライナをめぐる情勢で少し分かってもらえたかなとは思ってるんですけど、イヴォ・ヴァン・ホーヴェは完全にプルシェンコと同じ箱に入りました。この人ら他人も自分も馬鹿にしながら道化を演じている、自分を観て笑っている観衆を見下している。そういうところが大嫌いです。
ーcoyolyー

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