古川智教

もう終わりにしよう。の古川智教のネタバレレビュー・内容・結末

もう終わりにしよう。(2020年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

脳の映画は身体の映画とは相入れない。そのため、身体の映画と比較するためにカサヴェテスの「こわれゆく女」が取り上げられ、主人公の女によって批判される。脳の映画においてはことごとく身体は傷を負わされ、取り替えられ、踊らされても、どこか奇妙に透けて見えて、不確実だ。その代わりに脳の映画はある特異な夢幻性を獲得する。それは死から見られた夢幻性である。

鈴木清順やデヴィッド・リンチばりの夢幻性は何に起因するのか。鈴木清順やデヴィッド・リンチの映画と何をもってどのように一線を画し、身を立てようとしているのか。数々の文学、絵画、映画からの引用が溢れているのに過去の夢幻性の映画について距離を置かずに、批評的にならずに、べったりと癒着しているなどということはあり得ない。夢幻性の原因は何なのか。その夢幻性はどこからの来て、どこへ行こうとしているのか。その点が問われることで自ずと明らかにされてくることがあるだろう。整合性のつかない夢幻性が、ある一点から見られた場合に、整合性がつかないでいることが一本の線としてはっきりと説明がつくような観点が。

ジェイクが高校の用務員に見られていると気づいたように、単純に映画を見ている我々がヘンリー・ダーガーのような高校の用務員の脳内にいると見做すべきだろうか。「マルコヴィッチの穴」からの進歩、変化はないのだろうか。もう一歩踏み込んでみる必要があるのではないか。それは用務員が老人であり、死が差し迫っているという点だ。生の側よりも死の側の近くにいて、そこから自らの過去と夢と妄想がないまぜになっているものを覗いているという意味で。「考えるということは行動より真実や現実に近い」

ジェイクの家からの帰り道、車中での会話の中で、「人は自分が時間の中を動いていると思っている。でも、恐らくそれは逆。人は動かず、時間が通り過ぎる。冷たく吹く風のように人の熱を奪い凍らせる」「何を考えている?」「さあね」「死?」「今夜のわたしはまさにその風。彼の両親を通り過ぎ、2人の過去と未来を見た。2人の死後も」というセリフがあるが、これは時間の方から人を見ようとしているから言えることだ。では、「人」を「生」に、「時間」を「死」に置き換えて考えてみてはどうか。無限の「時間」の側から見れば、極めて短い有限の「人」が動いていないように見えるように、「死」の側から「生」を見ようとすると、それはどう映るのか。我々は普段、「生」の側から見えない、触れられない「死」に向かっていくものを見ようとしているだけだ。

ジェイクの農場に到着したとき、主人公の女が、「人は常に死ぬより生きようと希望を持つ。物事が好転するだなんて人間の幻想なのに。本当は好転しないと知っているからだろう。すべては不確か。でも、人間だけが死は不可避だと知っている。他の動物はただ生きる。人間は無理だから、希望を発明した」というナレーションがあるが、生者の側から見た世界はそうした希望のために整合性の取れたあり方をしているように見える。見えるように脳が勝手に調整している。実際にこの世界に色彩は存在しないのに、光を脳が勝手に色彩だと認識するように。「客観的な現実は存在しない。宇宙には色はないだろ?脳の中にしか存在しない。脳が波長に色を塗っているだけ」。では、時間の側から見た人のあり方と同じように、死の側から見た生のあり方はどう見えるのか。脳が裏返しになり、反転すれば、世界はどう見えるのか。まず、時間の一方向性は失われる。ジェイクの家での父と母の老化と若返り、過去と未来、2人の死後。次に時間以外でも奇妙な齟齬が生じてくるだろう。整合性はもはや期待できない。生の希望は根こそぎ奪われているのだから、光の行為を色彩と捉える必要がないように、現実世界で我々が見ている事物もばらばらに解きほぐされて、整合性はなく不確かなものだけになるだろう。「もう終わりにしよう」というどこからともなく聞こえるリフレインも高校の用務員の脳内から発せられる、幻想を終わらせようとするものというだけではなく、死が発しているのだ。終わりである死が、もう終わりにしようと。 

脳の襞。その陥没地帯。そこは死が入り込む隙間。侵入した死から見られた夢幻性。その映画。「そして、僕たちの脳は侵される。まるでウィルス」
古川智教

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