フジマークス

アジアの天使のフジマークスのネタバレレビュー・内容・結末

アジアの天使(2021年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

 幾分か前の鑑賞であったが、ハリウッドにおけるメロドラマについての文章を読んだ末にこの映画のことを思い出したので、箇条書きでない論理的な文章によってこの映画について語ってみる。
 何故ハリウッドに関する文章を読んでこの映画のことを思い付いたのかというと、この映画ではメロドラマ的な要素があり、またメロドラマを一度否定した上で、しかしさらにメロドラマを信じようとするという試みがなされていたように考えるためである
 この映画におけるメロドラマとは、日本人の男と韓国人の女が、おじさんの見た目をした天使を見たという彼ら独自の経験をしており、その経験を互いにしていると気がついた際に運命的なものを感じてしまうというものである。彼らは言語も違えば境遇もほぼ一致せず、さまざまな障壁がある。しかし、その運命的な経験の一致によって互いは障壁を乗り越え、愛情を持つ可能性が生まれるのである。これはメロドラマ的要素の言えるのではないだろうか。
 しかし、これは完全なメロドラマでない。さらにメロドラマの否定のような事が行われる。彼らは互いに愛情を持つかと思われた時に、主人公の息子(主人公は妻と死別している)が姿を眩ましてしまうのである。息子が母親のことを思っているということは観客に丁寧に提示されている。そして主人公は、息子への気遣いを忘れ新たな恋愛感情を抱いていることで、自信を責める。現実的な障壁がメロドラマの成立を妨げているのである。
 ここまで論じていながら、ここで新たな考えが浮かんだ。メロドラマに必要不可欠なものが愛情であるならば、主人公は強い愛情を抱いている。それは死別した妻と息子にである。息子の存在を現実的な障壁というのはあまりにもお門違いかもしれない。主人公は息子と死別した妻を愛しているのだから。
 ここでまた新たな考えが浮かんだ。息子の存在が彼らにとっての障壁でないとするならば、それはメロドラマの否定として考えても良いかもしれない。ハリウッド映画などにおけるメロドラマにて男女の妨げになるものは、彼らにとってまさに障壁のようなものと言える。しかし繰り返しになるが本作における息子の存在は主人公らにとっての障壁では全くない。それまでの彼らの間にあった言語の問題や、日韓関係の問題のような正に障壁とも言えるものとは全くの別ものなのである。なので、メロドラマが障壁でないものによって成立しなくなるという意味で、これはメロドラマの否定ともとれる。つまり、メロドラマと、その否定というものがこの映画の中で行われていたと認めることができるかもしれない。
 ここまで、メロドラマというものの周辺で本作について論じてきたが、ここで方向を修正しなければならない。主人公と韓国人女性の間にメロドラマがあり、その上でメロドラマの否定が行われているのではないかと考えたが、それについての考えが右往左往している。しかしそのようなものがあるのは確かだ。男と女の間には様々な障壁がある。生まれた土地の違い、その違いもあれば当然言語の違いもある。境遇も違う。そんな彼らが偶然にもロードムービーとして旅をして、さらに運命的な経験の一致によって恋愛感情を抱く。本作では、様々な障壁がありながらもそれを乗り越えることの可能性を恋愛感情を用いて提示している。しかし映画終盤で主人公の感情の方向が切り替わる。息子への愛情によって、主人公らが恋愛関係になることはどうしたってできない。さらに本当に愛したのは死別した妻だったのである。でもそれを乗り越えたい、信じたい、会ったばかりのあなたを愛したい、というような切実な訴えのようなものが行われていた。
 彼らが障壁を乗り越えることが、あまりにも不可能な状況であって、彼らが感情を共有するのが強引だという意見があるが、そんなものも取っ払えるって信じたいという切実な願いがあった。願いに過ぎないと言われたらそうではあるが。
 天使があまりにもファニーな見た目であるのも、私は良いと思えた。彼らは天使を見たという経験を信じ、己を信じ、天使を信じることを生きる理由にするのであるが、キリスト教じゃないんだから天使が美しいとは限らないよなと思う。フォーマル的なものでなくても、信じたい、信じることができれば良いということなのである。少々ファニー過ぎるが、やり過ぎないとメッセージにならないとも考える。
 ロードムービーとして、道を行く車はあいも変わらず美しい。豊かである。
 また、ラストシーン食卓を囲むということは、家庭的な幸せの形の1つだと思えた。
 とはいえ私も批判的な立場をも取ることができる。例えば彼らはラストシーンで食卓を囲むが、それが今後も続くかということは全く予期できず、すなわち彼らは壁を一瞬は踏み越えたかもしれないが、生活のたびに現れる新たな壁を、それぞれ乗り越えることができるかということはわからない。
 この映画は、とりあえず今のところは壁を乗り越えることができたのだということを観客に提示することに成功している。今後のことは「乗り越えたい、信じたい」という思いに託されているということであろう。繰り返すが思いに過ぎないと言われたら、その通りなのである。
 ただここまで色々考えたが、やはり人間は倫理とかそういったものだけを問題にしていたら生きていけないだろう。本作のオダギリジョーが演じていた男はあまりにも倫理とかけ離れたところにいる。そういった人間への肯定というものもあるかもしれない。主人公も息子をほったらかしにして恋愛したり、一度は思い返っても、でもやっぱり今度愛せるようになりたいとか、信じたいとか勝手なことを言っていたのである。そんな人間だって肯定されても良いと思う。『川の底からこんにちは』でもそんなようなところがあった。ゴミ男に対して「あんたのこと好きになりたいんだよ!」って言ったり、最後独白っぽく訴えるのも共通している。
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