シズヲ

アル中女の肖像のシズヲのレビュー・感想・評価

アル中女の肖像(1979年製作の映画)
3.8
「マダァム……」

アル中女、ベルリンで飲み歩く。『荒野の千鳥足』ならぬ『ベルリンの千鳥足』。ニュー・ジャーマン・シネマ期にも活躍して高い評価を得ていながら、日本では上映の機会に恵まれなかったというウルリケ・エッティンガー監督の“ベルリン三部作”の一作目。

主演女優であるタベア・ブルーメンシャインの超然とした美しさたるや凄まじく、鮮やかで華美な衣装設定も含めて強烈な印象を残す。冒頭の真っ赤なドレスから度肝を抜かれ、くすんだ風景とのコントラストが焼きつく。彼女の台詞が一切存在しないことも相俟って、ある種のカリスマ的な雰囲気さえ感じてしまう。しかし映画の進行と共に、彼女の寡黙さはカリスマ性というより概念性のように見えてくる。この映画、飲み歩きが本格化してからは形式的なストーリーテリングを破壊している。主人公のバックボーンの曖昧さにも後押しされるように、現実を飛び越えて“感覚“と“哲学”が混濁した世界へと幾度となく突入する。

序盤を抜けた辺りから物語は次第に掴み所を失っていき、やがては夢遊病のような旅路と化していく。整合性すら曖昧な登場人物達の動向、唐突な場面展開の連続、非現実的なシーンの数々……画面上で“断片化された事象”が繰り返される。作中の現在地さえも曖昧にしていくような構成が、ベルリンのシュールな退廃性と共に描かれる。酩酊状態に陥ったまま意識が延々と飛び続けている時の不条理性に、アーティスティックな感性が差し込まれているかのような異様さが漂う。そんな中で時おり急に現実へと引き戻されるように主人公が彷徨うシーンが挟まれる、その瞬間の途方もない孤独感。引きの絵面からクロースアップに至るまで、画面構図の拘りも随所で感じられる。

作中の登場人物達は半ば観念的な存在と化していき、突然場面に現れては消えていく。泥酔している主人公の断片的な記憶や夢の中の意識があべこべになっている……のかもしれない。ほぼ主要人物と化している三人組の女性は、主人公の真横で社会問題や規範について議論を重ねる。フェミニズムや依存症などを語る彼女達を尻目に、主人公は奇妙な友人ともども飄々と酒を飲み続けていく。何処か風刺めいた絵面である。

そうして映画はただ“公の場で女性が好奇の目で見られる社会”で“ひたすら酒を飲み続ける女性”の奇妙な夢想的冒険を描いていく。『帰らざる切符』という原題に加え、鏡やグラスなどに対する破壊的行為も含めて、不可逆的な自己破壊性の趣に満ちている。終盤に考察される“消費社会におけるアルコールの宣伝”と“アルコールに依存することの意味”、酒と社会/人間の繋がりの本質に踏み込んでいるような味わいがある。いつもショッピングカートを引いている酒飲み友達が序盤にぼやく「社会が私達を必要としていないから 私達の頭を変にした」という台詞、依存と孤独の根幹を端的に語っている。“アルコール依存症”と“アウトサイダーであること”が要所要所で肉薄している。
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