とうがらし

TOMMASO/トマソのとうがらしのレビュー・感想・評価

TOMMASO/トマソ(2019年製作の映画)
3.7
芸術家は、映画監督は、生来の変人である。
本作を観て、つくづく感じた。

フェラーラ版「8 1/2」
イタリア語を学びながら、ローマで妻子と暮らす、アメリカの世界的芸術家トマソ。
映像の脚本を執筆しながら、演劇学校で演技指導をしている。
創作活動は思うように進まず、私生活もかみ合わなくなり、精神が徐々に崩壊して、現実と妄想が交錯する。

アベル・フェラーラ監督(当時67歳)の自伝的作品。
家族を撮る、自分を撮る。
ホームビデオ的な行為から、自我をそぎ落としてもそぎ落としても、そぎ落とせず、他者化(フィクション化)して、スクリーンに投影。
監督自身の生活を、名優ウィレム・デフォーに演じさせ、楽しそうに戯れる(監督の実際の)若妻(当時25歳)と幼い娘を撮り、妻をデフォーとセックスさせる。
画家が芸術に情熱を燃やしすぎて、自分の身近な人までモデルにしてしまう感覚か。
あるいは…
生殖機能が衰え、老いを自覚しても、なお、他者に介入させてまでして、若妻への愛欲を満たそうとする。
まるで「鍵」(谷崎潤一郎原作・市川崑監督)のような感覚が本作の発端か。
「ニーチェの馬」(タル・ベーラ監督)や「極北のナヌーク」(ロバート・J・フラハティ監督)のオマージュ等も散りばめられている。


大事なことは、気を逸らすことなんだ。
君らは、演技に集中しすぎる。
演技は、自己制御と忘却の境目にある。
忘我の境地に達してこそ、豊かな感情表現が可能になる。
他者の演技に反応すると、新たなアイデアが生まれる。
ひと真似や見せかけの感情表現では、実感は得られない。
自分のできる範囲に、とどまってはいけない。
自分を越えようとしなきゃ、だめだ。
(劇中:演劇学校の演技指導にて)


本作の良し悪しは別にして、映画監督は常識に囚われては面白いものはできない。
狂気的思考がなければ、やり続けられない職業なのかもしれない。
一流と言われる存在に近づけば近づくほど。
徹底的に自分の殻を破いて、自己消失する寸前まで、骨髄を砕く。
そこまでしかないと、世間をワッと驚かす作品は生まれない。

「8 1/2」的な作家の苦悩は起こり得る。
何かしらの作品が、たまたま当たったのきっかけに、世界の注目を集め、名声を得て、自分の才能以上の期待を一身に背負う。
運でつかんだものに、不断の努力なしには、もう天使は微笑まず。
次作を生み出しても、空回りして酷評される。
どうにか長年続いた監督業も、アイデアが枯渇。
ついには最終手段に出たが、自分の下した決断と自分自身との間で葛藤し、のた打ち回る。
実際はどうだか知らないが、そんな監督の姿が目に浮かんだ。

世間が、映画監督にモラルを求める昨今。
それは、映画監督=人格者のイメージから来ている。
でも、映画の幻想が作り出した神話。
もちろん、なかには完璧な人格者もいるかもしれない。
極論を言ってしまえば、人間ドラマは、何かが欠けた人間の世界。
倫理に反する云々は別として、どこかしら欠けているから、人間ドラマを描ける面がある。

もし仮に、作家たる極限の苦悩に陥った者の前に
美女がいれば、
酒があれば、
クスリがあれば、
ロープがあれば、
銃があれば、
神や仏がいれば…。
その一線を越える、越えないか。
ひとりの人間として、瀬戸際に立たされる。
精神的な死を享受する、心の弱い持ち主。
だからこそ、綺麗ごとではない、人間の核心に迫った描写ができる。

いつ落ちると分からない、薄氷の上を歩んで、自己ならざる自己に思いを馳せる。
芸術の檻から逃れられない、厭世的な囚人。
耳を切り落として、自画像を描くゴッホのように、発作を起こしても作り続ける。
世間のさらし者になって、自分を処してくれることを待ち望みながら。
良くも悪くも、真の芸術家とは、そういう生き物なのではないだろうか。


予告編
https://www.youtube.com/watch?v=wkUOLMXk_Xg
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