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ノマドランドのmiyuのネタバレレビュー・内容・結末

ノマドランド(2020年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

・初めは、キャンピングカーで旅したいなあ、サックスやっぱり買いたいなあ(フルート吹いてるのを見て)、とかって思っていた。
この作品における旅は、人生という旅であって、そこにおいて自分の発する単語としての”旅”の背景で広がるのは、ピクニックのようなものだ、と思った。
術だったり、人だったり。そういう様々な自力の、そして他人のおかげの、ものたちによってどうにか生きていくような。人生って原始はそれくらいの逼迫したもので、そのスリルを楽しむことはきっとみんなにできて、でも大変でもある。だから、よりイージーにするためにパッケージをつくる。でも、そのパッケージも脆く、すぐに崩れ得る。
どれだけ真っ直ぐに生きてても、どれだけ正しい正直な選択をしようと思っていても、どうしようもない不条理は、起こりうるのだろう。自然災害もあるし、人の行動だって、予知できないし、制御できない。意味不明なものばかり。
ネブラスカ(?元住んでいたところ)を見ていて、福島みたいだなあ、と思った。雇用されているという状況はよわい、自分の力ではなく組織の力みたいな掴み切れないものに頼って生きるというのは、それがふとしたときに一方的に失われたって、自分でどうにもできないこと、ほんとうに正当な不満をそれに対して言えないこと、と思ったが、でも”雇用”という言葉ではなくても、私達は国や自治、世界的な経済システムの不確かな主体が管理するこの世にどうしようもなくサポートされて生きていて、そして一番大きなものは、我々はみな、そのようなあらゆるものから逃げたとしてもこうして存在するその限りで、この地球に、この自然の中に、この大地の上に生きるしかないということだ。生まれた時点で、その土台はどうしようもなく虚ろで不確かなものである。その上に自分がその人生の時間と労力をかけて作ってきた生活なんて、ちょっとしたものによって、すべてなくなる。生きているかぎりすべて失われうる。

・うつくしい自然をみるということ、それにたいして自分の存在が何かわかりやすい影響を持っているわけでもなく、つまり自分の行動や存在があってこそそれが成り立ってるわけではないものごとへの感動を、自分の生きる意味にするということに、自分は耐えられるだろうか。
たしかに人間なんて、自然においては本当にごくちっぽけな存在でしかないんだけど、そういう自然観の中で自分の生命を認識していくのか。まあでも、わかりやすく自分の目の前に他者や人々の営みの存在を感じられるというのではなくても、自分の身体や感情の動きすらその人間の営み、生活の中での変化であると捉えられたら、別にそれでいいと思えるのかもしれない。これは、人に優劣をつけたり排除したりというのを自分がしないためにも、重要な深度の想像かもしれない。

・ヒッピーの若者たちのコミューンや、ヒッピーに限らず自由な魂を持つ若い人たちと技や経験を持つ丈夫な老人の交流、みたいなのとかはイメージとして触れたことがあったし映画や本などでも割とある気がするが、そういう自分の敏感さを感知して生き方をオリジナルに模索してきた若者たちのうち、その生き方をその後の人生もずっとつらぬいた人の老年期、最期を迎えようとしていく様子みたいなのって、私はじめて見たかも。これまでそんなになかったんじゃないか。新鮮だった。

・でも職を失った人すべてがこれをしているわけでは無いんだよね、ということは念頭に置くべきだとも今思った。ここでこうして楽しそうにやっている人たちは、きっかけこそ解雇とか立ち退きとかだったかもしれないけど、人柄にふれるうちにやっぱり隠されてきたというか、秘めようとしてなくても秘められてきた自由さや奔放さ素直さ、大切だと思うものと社会のそれとの違いみたいなものがあるように感じた。だから、その人たちがこうして生きていけるのはいいね、とも思った。一方で、生活のギリギリ感が現実としてあるというのも否定できず、という、言い切れないかんじもある。結果というか、現状の生活様式として似ていて、同じところで話し、笑いあうひとたちであっても、そこに至る経緯やその生活に対して思っていることとか、今持っている事情はそれぞれである、ということ。

・手伝いたい、なにか関わりたい、と、掃除をしているファーンのそばで荷物を運ぼうとして落して大事なお皿が割れる、というのを見て。
あなたには関係のあることじゃないから関わるべきではない、というのはあるよなあ。個人のことでも、家族のことでも、地域のことでも。そのプライベートなところの中にはたしかな日常みたいなものが堆積していて、そこで築かれてきた論理的でなく明言されない独特の空気や秩序があって、それをいちいち言語化したりすることによって事故を防いでまで他者が介入する必要はない、みたいなもの。なんでも力になることとか手伝おうとすることが正しさになるとかではなくて、内のひとだからこそさわっていいものとか関わっていいものやっていいこと、がある。でも一方で、事故が起きたとしても、その立ち入りが不要で有害なものであったとしても、それをやらなければ関係構築は始まらない、内の人としての共通の経験の所持は始まらない、ともいえる。

・なんにせよ、自分や人の生き方を考える上で今見れたことをよかったと思えるというか、今自分が求めていたような別極の風景があったような気がした。
人はたしかにあたたかく存在しているけれど、でも結局、あたり一面は岩と砂と背の低い植物の中、他者だって自分の視界の中ではただその風景の一部だ。生きるというこの旅は、いつまでも一人なんだなと思った。
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