ブルックナーの9番

アイダよ、何処へ?のブルックナーの9番のレビュー・感想・評価

アイダよ、何処へ?(2020年製作の映画)
5.0
9月12日にムービープラスで「アイダよ、何処へ?」を鑑賞した。私はこの作品を観ていてる間じゅう息苦しさと不快感に悩まされた。ドキュメンタリーではなくて映画であると分かっていても、胸が苦しくなり腹まで焼けるように熱くなったのである。だからこの映画は余り身体には良くないようだ。描かれている内容がシリアスにして余りにもリアルなので、まるで鉛の棒を飲み込んだかのような違和感に苛まれたのである。これが人の手によって創作された映画であるとはとても思えなかったのである。この映画を製作したヤスミラ・ジュバニッチ監督の「魂」の生々しい息づかいに私は終始圧倒された。更に私は、ジュバニッチの「魂」から生暖かい鮮血が滴り落ちるのも感じた。だから「アイダよ、何処へ?」は単なる商業映画ではない。つまりこの映画は極めて特別な存在であり決して只者ではないのである。この作品には「ボスニアヘルツェゴビナ紛争」によって命を奪われた20万人超と、「スレブレニツァの大虐殺」で殺された8000人超の怨念と御霊(ごりょう)が込められていたのである。そしてジュバニッチ監督の命(めい)を受けて、アイダ役のヤスナ・ジュリチッチはこの作品に全身全霊を注いだのだ。ジュリチッチは見事なまでに、ジュバニッチ監督の意向に適応して見せた。結果として「アイダ」は役柄ではなく、血の通った実在する人間として、この映画の中で永遠(とわ)に生き続けることになったのである。アイダとそれを演じたヤスナ・ジュリチッチの2人は、ヤスミラ・ジュバニッチ監督の言わば分身なのである。アイダは国連と現地人との通訳であると同時に、鑑賞者と作品を結び付けるコーディネーター(案内人)でもある。兎に角、アイダ役のヤスナ・ジュリチッチが良かった。彼女の「今」しかないという、この切迫感と、「今」この瞬間(とき)を逃せば全てを失う、と言う悲痛なる「叫び」に胸が張り裂けそうになる。「今」と言う現実を見つめるアイダの視線と瞳の輝きが、「ボスニア内戦」の深刻なる真実を如実に物語っていた。    ところで壮絶で悲惨な紛争や内戦などは何ゆえにに繰り返されるのだろうか。  自然界においては「熱力学第二法則」に基づく「エントロピーの増大」(無秩序:混沌)は必定なので、物理現象の一つである人間の営みとてその例外ではない。そしてエントロピーの増大に伴って集合と離散、建設と破壊とが交互に繰り返されるのである。つまりこれらを総括し統合したものが人類の歴史(或いは人間の本質)なのではないかと考えている。別の言い方をすれば、仏教的概念の「諸行無常」が人間社会の変遷を的確に表現しているのである。 「ボスニアヘルツェゴビナ紛争」もまた、エントロピーの増大に伴う集合と離散、建設と破壊の歴史の延長線上に位置する「不可逆的な悲劇」なのである。特定の地域に「異教徒」である複数の民族が混在し、限られた場所(領地)をめぐって激戦が拡大し蔓延して行く。戦争(紛争)が一旦始まれば、その流れを止めることも縮小することも極めて困難となる。停戦や終戦に至るまでには壊滅的な「破壊行為」や「大量虐殺」が頻発するのである。そして紛争が拡大してゆく過程において、兵士たちは一種の「集団ヒステリー」を引き起こす(狂騒:狂躁の念に駆られる)。また、ゲリラ部隊などが極度の緊張感から解放されると、「エンドルフィン(脳内麻薬)」の過剰な分泌による多幸感(酩酊状態)によって無差別乱射などの「大量虐殺」に至るのである。負のエネルギーを爆発的に放出することでゲリラ部隊の「精神の均衡」が保たれるのだ。ゲリラ部隊や兵士などは恒常的に極度の「緊張状態」に身を置いている。指揮官が「たが」を緩めれば兵士たちは暴走するのは必至なのである。極めて忌まわしいことだが、特定の部隊にとってレイプと略奪は、兵士たちへの御褒美にさえなっているのが現実なのだ。    そしてボスニアの内戦などでは形勢の逆転や紛争地域の拡大などが生死を分ける。具体的に言えば、誰が敵で誰が味方なのかということ(相手を見極めて判断すること)。つまり全てはもっぱら「他力本願」と言うことになる。自分たちの力だけでは何ともなならない。「国連の限界」もそこにある訳だ。戦争:とりわけ、内乱や紛争においては先方の出方次第、指揮官の匙(さじ)加減ひとつで万事が決するのである。    2023年現在「露宇戦争」下において、ロシアとウクライナの「いったいどちらが正しいのか?」と言う難しい問題がある。我々のような外国の第三者は「ロシア派」とか「ウクライナ派」とか自由に発言できる。併し当事者(露宇の国民)は、或いは紛争地域の住民たちはいったいどうなるのか。うっかり相手(敵と味方)を見誤ったならば、たった一つの発言が命取りになり兼ねない。もしも誤ったメッセージを発すれば最悪は家族全員が皆殺しにされてしまう。偽装ゲリラなどの存在もあり、これでは誰が敵で誰が味方なのか皆目判らないではないか。「非武装中立」という概念も、広域にわたって激戦に次ぐ激戦が続く紛争地域では有り得ない。また紛争における調停は常に「交渉の決裂」が大前提となっている。故に、「和平交渉」や「一時停戦」なども多くの場合は「絵に描いた餅」に過ぎない。話し合いで解決するのは、「共通の価値観」を有する「善人同士」に限られる。残念ながら、「屈強な軍隊」には「最強の軍隊」で対抗する他はないのである。「毒を以て毒を制す」が「紛争解決に至る鉄則」なのである。     「アイダよ、何処へ?」について色々と長々と書いた。この映画は観ると言うよりも、経験すると言ったほうがより適切であろう。私は常に物理法則(量子論)や哲学や仏教的概念などを通して世の中を見ている。その流れで言えば「人類の歴史」を、人間は絶え間なく過ちを繰り返すという「円環的時間」として捉えている。なので私は「ボスニア内戦」や「スレブレニツァの大虐殺」を過去の悲劇だとは思わない。ロシアとウクライナの問題のみならず、我々の周りには広範に遍く火種は常に燻っているのである。ヤスミラ・ジュバニッチ監督とヤスナ・ジュリチッチのこの「魂の叫び」を、鑑賞者の多くが真剣かつ真摯に受け止めて勇気ある行動をとることを心から祈念している。