なべ

私というパズルのなべのレビュー・感想・評価

私というパズル(2020年製作の映画)
2.7
 長回しが嫌いだ。意味がわからない。カットを割った方がいいに決まってるのに、時々どういうわけだか長回しで野心を満たそうとする監督が現れるのな。
 本作もそう。オープニングから出産までの導入部を30分の長回しで見せる。もちろん監督のねらいはわかるよ。妊婦の不安や苦痛はちゃんと伝わったさ。でも露悪的なんだよ。
 たいていのドラマでは苦痛の先に幸せが訪れるおなじみの出産シーンだが、ここでは30分も苦痛に付き合わされた挙句、待っているのは不幸。股間から胎児の頭が覗くところまで見せておきながら、失意のどん底に突き落とされる。
 テーマは深い悲しみに直面した人々の在り方。同じ経験を共有しながら、それぞれ悲しみとの距離や向き合う角度が違っていて、決して交わらず、歩み寄りもないって話。
 例えば妻マーサは、先に進むために不幸を済んだことにしようと苦闘するが、夫ショーンはとにかくどん底まで悲しみ抜きたい。妻の母エリザベスは誰かを罰して責任の所在を明らかにすることが不幸からの立ち直りだと信じている。

 こういう不幸って、経験した人ならわかると思うけど、失意や怒りが次々と変容していくんだよね。配偶者を責めたり、自分を責めたり、社会や環境のせいにしたり。それらがループしてエンドレスな責苦となる地獄。だけどこの作品では各自スタンスがひとつずつ定められてて、そこからブレない。なんていうのかな、発想がとても直線的。リアリティを追ってる割には心情が単純。文芸作品の見かけなのに、まるでアクション映画の設定みたい。

 ここにはまず自分の身に起こったことに向き合おう、あるいは傷ついた相手に寄り添おうって奴が一人も出てこない。個人主義の進んだ米国人は悲しみ方もエゴイスティックなんだなあと変な感心をしてしまったくらい。
 てか、ぼくなんてすぐに「お前ら自分が悲しむことに夢中で、赤ちゃんのこと全然顧みないのな!」とネタバレ的なツッコミをしてたよ。

 あとメタファーが雑。やたら出てくる橋梁は、「悲しみの共振が家族を壊す」とか「離れていたあちらとこちらが繋がるまで」とかの比喩なんだろうけど、あからさま過ぎてちょっと恥ずかしい。昔ならOKかもしれないけど、現代はもっとうまく喩えないと。そもそもこの家族はちっとも共鳴してないからな。
 他にも再生とか成長とか希望のメタファーでりんごを持ってくるのもかなり恥ずかしかった。あ、本屋で発芽の本と出合うシーンはよかったな。
 現実世界ではこういう問題はもっと輪郭が曖昧で、理屈じゃ説明できないけどなんかわかるって感じじゃない? こうした答えのないデリケートな話をテーマにするときは、直線的な思考でつくってはいけないと思うんだ。シリアスぶってるのにこんなに単純だと全然共感できない。
 そこまで悪い作品ではなかったけど、書いてるうちに、あまりにも指摘する点が多くてこんな感じになっちゃった。

 乳児突然死症候群で子供を亡くす母親は少なくない。日本なんかより米国の方がずっとケア体制は進んでいて、SIDSの絶望から立ち直る支援がしっかり組まれている。実際にはマスコミの餌食にされる前にカウンセラーが速やかに訪れているはずだ。そういう事実を描くことなく、不幸の見本市のような描き方をした制作にぼくは悪意を感じたよ。献体に訪れたマーサが目にする標本の数々も同様。本当はSIDSの究明のために、献体はとても尊い行為なのだが、グロテスクな描写でその高邁な精神をも毀損しているのだ。
 さらにいうと、ガテン系労働者は直情型、ユダヤ人の金持ちは何でも金で解決しがちって差別観さえ窺えて、心にささくれができちゃうのよ。

 フェミニズム映画と評するむきがあるらしいが、どこがやねん!と思う。女性の地位向上にどんな貢献をしてるんだ? 出産はかくも大変なものなのよってところ? センセーショナルに見せただけじゃん。中には「SIDSで子供を失った人に観てほしい」なんて感想があってゾッとした。
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