なぜ私はソヴィエト連邦という国家にこれほど惹かれるのだろうか。なぜこの国に興味を抱かずにはいられないのだろうか。
これは時折自分の中で、思い出したようにふと考える問いの一つである。これから先も明確な答えは出そうにもない。映画館を出て駅へと向かう道すがら、またこの問いに向き合うタイミングが来たのだなと感じた。
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物語の舞台は1962年。この頃のソ連はスターリン批判後のフルシチョフ体制下にあった。血腥い戦争と陰鬱なスターリン主義の残り香がスクリーンからも漂ってくるようだ。
とはいえ、それらの悲劇も時と共に少しずつ距離が生まれ、当時を知る人とそうでない若者たちの間には意識の差が生まれる。そのような時代である。
主人公は熱烈なスターリン主義者であり、娘や父との間には常に緊張感のある空気が流れている。
母と娘の確執などというものはどの家庭にも当たり前にあることだが、それが即イデオロギーに接続されるという環境は興味深い。小市民的な一個人の生活と国家の政治体制が連綿と続いているという感覚は、ソ連という国の人々の面白い所だと思う。
序盤、ストライキした労働者を全員逮捕せよと声高に主張する主人公の姿は、ともすればかなり苛烈で不安定に感じるかもしれない。しかし独ソ戦の凄惨さを少しでも知っていれば、あの時代をイデオロギーに縋らずに生きることの難しさがわかるはずだ。
軍服に身を包み笑顔で写る写真や、「あの人は本物のソ連の英雄だった」と失った男を語る時の彼女の顔。その輝きと痛み。固さと脆さ。
きっと、彼女にとってソ連は“本物”だったのだろう。だからこそ、無神論者であるはずの彼女が十字を切って娘の無事を神に祈るシーンや、幻想が打ち砕かれ「共産主義以外の何を信じろというのか」と慟哭するシーンはあまりに悲しく、痛々しい。
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とどのつまり自分がソヴィエト連邦に惹かれる理由は、矛盾する二つの事柄をそのまま抱え込む、その両義性にあるのだと思う。
確かにソ連の歴史には常に暴力と圧力の影が付きまとい、その権力は腐敗していた。およそ理想郷とは言い難い。しかし、だからといってあの国の何もかもが薄っぺらい嘘だったかと言うと、決してそんなことはない。
ソ連の人々は時に体制を皮肉り、絶望もしたはずだが、あの国には確かに共産主義を本気で信じた人々がいたのだろう。信じたかった人も、信じずにはいられなかった人も含めて。
「未来はきっと良くなる」というラストシーンの台詞は、その“未来”を既に知る画面の前の我々の胸を刺す。
良いシーンは多かったが、中でも愛国的な歌を涙声で歌うシーンは出色の出来。同志を讃え、イデオロギーを称揚し、輝かしい未来を歌うあの歌は、ある一面ではプロパガンダでありながら、同時に彼らが目指し信じていた未来でもあったはずだ。
ソ連に戻ってきてほしいと思うことは出来ないが、そのような国がもはや地図上のどこにもないことに、私は一抹の寂しさを感じずにはいられない。
モノクロにほぼ真四角のアスペクト比というやや圧迫感のある画面構成と劇中歌を含めた音響効果を効果的に用い、当時の社会主義国家に翻弄された人々を描いた、大変苦味のある作品であった。