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水俣曼荼羅のmegurosのネタバレレビュー・内容・結末

水俣曼荼羅(2020年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

横浜シネマリンのオールナイトで鑑賞。

メチル水銀中毒症(水俣病)は長らく末端神経系の損傷だと信じられてきたが、中枢神経を中心とする大脳皮質損傷による感覚障害であることが研究によって分かってきたという病像の解説から第一部はスタート。末端神経障害であることを前提に国の水俣病認定、補償は作られているため、そこからこぼれ落ちる”被害者”は国や県を相手取って裁判を起こすことになる。

原告が求めるのは、国が過去の誤ちを認め、その認定制度を改めることだが、長い年月をかけて最高裁判決までたどり着いたとしても、その決定を国や県は実質的に無視する形で過去は批判的に振り返られない。国は補償は特措法に基づいて済んだという態度を崩さず、あとは県の対応に委ねるとするも、一方で県も自らを”行政事務受託執行者”に過ぎないとして責任の放棄がなされている。”水俣病患者”はその間も苦しみ死んでいくが、その内に段々と被害者が被害者であり続けることが難しくなってくる様がカメラに写されていく。国と戦うことがいかに困難か。

かつて「怨」の旗を掲げて裁判を戦った「苦海浄土 わが水俣病」の著者石牟礼道子氏(パーキンソン病で取材半年後に没)は「悶え神」という言葉を映画に残した。「悶え神」とは苦しんでいる人の背中を撫でて一緒に苦しんでくれる神様で、熊本の部落に伝わる言葉のようだが、ポスターでもキーワードとして使われた。他人の苦痛や孤独を自分のことのように感じること、他人の中に自分を探し見つけ”私たち”になること。この言葉は我々がこの救いの見えない状況にあってどのように考え、行動すればよいのかそのヒントになるはず。

※上映後のティーチインで原監督はこのように映画を見て一緒に悩むことも悶え神になることなのかもしれないと語っていた。

※ ただ、既に浴野先生、二宮先生も熊本大学にいらっしゃらないらしく、研究を継ぐ人もいないようでそのあたりは本当に辛い。

※ 二宮先生が酔っ払って「裁判勝っても負けてもどうでもいい」と話す場面は感動的だったが、現場では4文字言葉を何度も繰り返していて女性陣がドン引き。編集で何とかしているという裏話については次回見る時にまた確認したい。

水俣は飛び込みで行って受け入れてもらえるような場所ではないということは観れば何となく分かるが、撮影に15年、編集に5年かかったという。372分の大作ではあるが、まだ終着点まで辿り着いてはいない。原監督が自身を中継ぎだと語るように、この後を継いでクロージングするビデオジャーナリストの登場が待たれる。
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