このふたつのドキュメンタリーが欠けてしまえば今後10年間、2020年代の映画のイメージは間違いなく貧しくなっていきそうな気がする
原一男「水俣曼荼羅」
ジャン・フランコロージー
「国境の夜想曲」
ただ今、わたくしはひたすら嬉しく狼狽しております。
濱口竜介監督のアカデミー賞ノミネートに関する話ではありません。
もちろん「ドライブ・マイ・カー」は申し分ない傑作である事は誰の目にも明白ですが、濱口竜介監督が「乱」の黒澤明以来約40年ぶりにアカデミー監督賞にノミネートされたと聞いた所で、「ドライブ・マイ・カー」が発する挑発に敏感な映画関係者が海外にも(やはり)存在したか、と思う程度であって狼狽える必要など何もありません。
ウェス・アンダーソンの「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」というタイトルだけでアルファベット全てを使いそうな新作にいささか興奮したのも確かですが、取り急ぎレビューを挙げたいほど狼狽えるわけでもありません。
ましてやそろそろ自分なりにクリント・イーストウッドの「クライ・マッチョ」観をモノ申したくなってきた訳でもありません。
私が狼狽えるているのは、昨年末から今年はじめにかけて、令和日本の視界にいきなり浮上して、まだ観ぬ私たちの瞳を混乱に陥れたのが、東西それぞれに出現したドキュメンタリー作品であるという事実に、です。
小川紳介亡き後のドキュメンタリーにどんな驚きが残されているのかなどと高を括るのはくれぐれも自戒して頂きたい。
私たちが出来る唯一のことは、この2つのドキュメンタリーが食らわす鉄髄にみずからの身を投じ、いかに1人でも多くのまだ観ぬ瞳を混乱に招くか、を案ずるのみでしかありません。
はやる気持ちを抑えて挙げる作品名の一本が原一男監督「水俣曼荼羅」、そしてもう一本は、ジャン・フランコロージー監督の「国境の夜想曲」です。
いささかでも事情に通じた方ならこのふたつのタイトルを聞いただけで無駄な抵抗はやめよう、と呟くに違いない。
そして事情にうとい向きには興味本位で近づくな、と申し上げたい。
もちろん原一男監督と、ジャン・フランコロージー監督が、お互いの作品をどんな思いで観ているかは私などに知る由もありません。
映画作家として連帯を抱いているのか、あるいは反目しあっているのか、そもそも最初からお互いに興味さえないのかさえ見当もつきません。
にもかかわらず、もしこのふたつのドキュメンタリーが欠けたとしたら、今後10年間の2020年代の映画のイメージがとても貧しいものになってしまうだろうという想像だけは容易く出来てしまうのです。