Few

水俣曼荼羅のFewのネタバレレビュー・内容・結末

水俣曼荼羅(2020年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

 
 この映画は長くない、まったく長くない。

 私ははじめ、水俣病の裁判がまだ続いているとは思わなかった。
補償金をめぐっての裁判なのかと思っていたら、そもそも認定されていない人もいるのだと知って驚くと同時に、人類の歴史に関わるこんな大きな出来事をよく知らなかったことを深く恥じた。「怒りの葡萄」で「人類は大きな一つの魂だ」と教わったばかりなのに、人間に関するこんな重要なことを何一つ自分の言葉で説明できない状態だった。恥ずかしくてたまらない。恥ずかしくてたまらなかったが、その先にすすむことにした。

 胎児性水俣病患者、現在闘病中の水俣病患者、水俣病だと後々にわかった現在闘病中の水俣病患者、患者の家族、家族が水俣病患者の人、水俣病と認定されないまま亡くなった人、水俣病と認定されて亡くなった人、認定はされたが補償してもらえない人、申請したのに認定されない人、申請して棄却された人、支援団体、手足の病気だと提唱されてきた論説を覆した医者たち、弁護士、環境省職員、熊本県庁職員…私がパッと思い出せないだけでこの他にもたくさんの人物が語る。原の主張に基づいた撮り方や構成ではなく、できるだけ満遍なく、水俣病に関わる人たちの声を拾えていると感じた。
 無論、患者たちは今も怒り続けているが、原の聞き取りによって新婚旅行の話や、恋愛遍歴、指をちぎられたという珍事件など患いながらも過ごしてきた日常の話もあちこちに聞こえてくる。医療的な話から、メチル水銀のその後、行政とのやりとりはもちろん、発症当時の症状と現在の症状など。
支援団体への聞き取りと発症当時の差別的反応に関しての話は割合的には少なかった。編集したのか、聞き出せなかったのか、どうなんだろう。
 私はフレデリック・ワイズマンも好きだけれど、ワイズマンは現場に擬態化して撮影する感じ。今作の原一男は、原一男という身体にカメラを擬態化させる感じがした。ああくまで、今作は。色々書きたいけど頭に浮かんだ印象的なことをざっと書いてみる。

冒頭の小池百合子との交渉、熊本副知事との交渉、溝口さんの判決のあとの環境省職員との交渉、なぜ弾劾される側はここまで準備不足なのだろう。原稿を読み上げ、自分の言葉で話そうとしたら配慮の欠片もない発言を次から次へとこぼす。挙げ句の果てには、発言を糾弾されたことに対して被害者かのような面構えで、耳に蓋をし、黙って、同じ言葉を繰り返す。組織の幹部に操られているから、というのは確かにそうだろう。原稿にないこと、上司から命令されたこと以外を話したら自分の首が飛ぶのかもしれない。でも一瞬、この県職員たちも被害者なのではないかと思いはじめた。溝口さんと熊本県職員の交渉時、おそらくプライベートで水俣の旅館を訪ねてきた職員もそこに座っていたらしい。彼は旅館で「患者さんのためにできることはしたい」と熱く語っていたようだ。交渉では溝口さんが県に対して勝訴したのち、熊本県が上告する可能性を仄めかした。そしてある職員の書類にメモされていた「上告については謝らない」という文言をめぐって会場内が激怒したすぐ後のことだった。「あなた、旅館でそう言ってくれましたよね?あれは嘘だったんですか?」と問われ、その職員はその問いがちゃんと心の方に届いていたようだったが、県職員としてしっかりと蓋をする音が聞こえた。微妙な出来事だが表情がゆらゆらしていた。
 もちろん、被害者の痛みや怒りは矢面に立つ人間が部下か上司かは関係ない。その人物が受け止めなければいけないし、それは義務みたいなものだ。被害者にとっての相手というのは、その時矢面の人間なのだから当然のことだ。私は何もみてないが、ある県職員が旅館でそうこぼした言葉が嘘だと言い切ることはできない。もしかしたら雰囲気に流されて言ってしまったのかもしれない。でもそれは嘘というわけではない。そう言わせる何かを彼はその場で感じたからそう口走ったのだと思う。何によって彼の心は県職員としての蓋をされてしまったのか。上司か、組織か、同調圧力か、彼にとって守るべきものか、患者たちの怒りの声か。どれも該当するだろう。
 そして私が考えたのは二つ。最初に患者優先の行動を取らなかった何者か。それは医者なのか、行政なのかわからない。その「最初」が、嘘を許し、人間の尊厳を踏み躙ることを許し、それを継続することを許し続けている。誰がはじめたんだ。人がつきたくもない嘘をつかされ、その嘘にまた深く傷つき、苦しみ続けるよう言い渡される人が大勢いる。
 もう一つは、あれは交渉の場ではないということ。水俣病患者が県職員や環境省に対して、公に主張する場所は必要だ。これは絶対に必要である。なぜなら、その組織の姿を生々しく伝え、患者たちの魂をぶつけることができるのはあの場だからだ。またそこで増幅する怒りもまた当然のものだ。
だが、職員ら個人の言葉を、心から発された生きた言葉を引き出すには、個と個でやり取りするしかない気もする。しかしその場を設定機できるか否かは、患者側ではない。弾劾される側は、自分たちは組織に飲み込まれて個を失う前に、また市井の人間のために働くためには個と個で繋がっていく方が良い。建設的な議論もできるかもしれない。病気は、個人によって違う。発症した年齢も、苦しんだ経験も、浴びせられた差別も何もかも違う。「水俣病患者」と一括りにして解決できる問題ではない。
 もう、司法も県庁も環境省も組織としては空っぽなので、できるだけ「個」に向かっていく方がより解決に向かっていけるのではないかと思う。さて、効率的に水俣病認定していくために「52年判断条件」を〜と発言した人間たちが、どこまで自分の魂の声を聞けるのだろうか。

 この話の流れで気がついたことを。
水俣病患者の中ではもう90歳を超えた方もいる。水俣病闘病患者は高齢者ばかりだったが、呆けている感じが全くない。もしかすると監督が取材対象から除外していたのか?と思ったが、なんだかそういう感じもしない。なぜだなぜだと考えたが、答えは割とすぐに出た。呆ける暇もないほど、それほど自分自身の身体と毎日毎日向き合い、身体の反応からはじまり水俣病の記憶を辿り、思い出しては怒って、言葉にし、仲間と声をあげてきたからではないか。それを何十年も続けてきた人たちだからではないか。人間が、不条理な嘘や、不当な扱いに抵抗するだけでなく、忘却という必然にさえも抗うかのようだ。

 石牟礼道子さんの声を初めてきいた。パーキンソン病で高齢ということもあり、震えや身体の不自由が深刻な様子だった。震えた体から発せられる声ももちろん揺れているのだが、例えば鈴をリンと鳴らした時、音の揺れの奥にみえる一本の太い筋みたいなものがある。聴いたことのない音だった。道子さんも言葉はの頭で精査して、丁寧に紡いでいるような印象を受けた。道子さんは、自身も水俣病患者であり両親も水俣病患者だった杉本栄子さんのによる言葉を引用した。だがここでは引用しないことにする。
 その言葉を踏まえて、まだ裁判で戦っている人たちの映像が流れる。いつか許すことができたらいい。無理して許すこともないし、怒ることは人間の生きる原動力にもなりえる。でもやっぱり苦しい。この映画の6時間と少し、たったそれだけの時間一緒に腹を立てるだけでもかなりの体力を消耗する。これを50年以上続けている人たちがいる。本当に、想像絶することだ。でもやっぱり心から許せなくても、仮でもいいから許せる日が来たらいいし、その前に心から申し訳ないと思って謝ってくれる日が先に来たら尚いい。死ぬときには何か少しでも憎しみが和らいでいたらいいな、どうか、そうなってほしいなと願わずにはいられなかった。


 原一男は、「ゆきゆきて、神軍」を撮影した人物と手つきとは思えないほど、冷静に、しかしできる限り寄り添いながら親密さを感じてもらえるような距離感でカメラを手にしていた。これはまあ、奥崎謙三には奥崎謙三にあう振る舞いを、水俣病の周辺に生きる人にはその人たちに会う振る舞いを丁寧に選んでいただけだと思うが、そうした慎重な振る舞いが、皮膚を突き破って画面にまで滲み出るものなんだと感嘆した。患者の語りを引き出すためには、多少失礼かもしれないと思えることも切り込んでいかなければならない。質問しなければ、緊張する、もし失礼になったら、また深く傷つけることがあれば、と躊躇いつつ尋ね、よくぞ聞いてくれた!と返答してくれたときの原一男の声色の変わりようもしっかり聞き取れる。質問した以上、どう転んでも引き受けねばならない。逃げてはならない。腹を括って、脂汗かいて、カメラをかまえている様子がよく伝わってくる。そういう姿勢を選択できる監督だからこそ、私はほとんど何も知らなかったという恥と、この人たちが歩んできた戦いの月日、これからも死ぬまで戦わなければいけないという絶望感も、手当たり次第のすべてを引き受けてみよう、がんばろうと思って最後まで見届けた。忘れてしまう日もあるかもしれないけど、私はこれから死ぬまでこの地域に生きる・生きた人たちのことをよく思い出すだろうし、怒ると思う。

みないまま死なないでよかった。命拾いした気分だ。
Few

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