古川智教

空に住むの古川智教のネタバレレビュー・内容・結末

空に住む(2020年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

遺作でしかあり得ない作品というものが存在する。その作品の後に作家が死んだからではなく、作品のなかに死の側からの眼差しが胚胎しているケースである。作家の死が偶然だとしても、作品を見る者にとっては作家の死の後に見ることによって、作品そのものに胚胎する死の側からの眼差しと、作家の死後に見る作品とが重なり、奇妙なぐあいに二重写しになって見える。二重写しというよりは、まさに高層マンションの一室で時戸森則が直美に語るメビウスの輪のようにその二つが往還しているかのようだ。

敢えて作品と作家との間に引かれた境界線を踏み越える禁忌を犯してみよう。作品がそう要請しているのだから。たとえ作家の生が突然途中で断たれたように見えたとしても。我々もまた作家の死後において、死の側から映画を見つめている。

作品そのものに胚胎する死の側からの眼差しとは、恐るべきことに反映画を構成するもののことである。高層マンションの窓の前に置かれる交通事故で他界した両親の位牌と猫の骨壺がその象徴となるだろう。反映画がいかにして、どのように導かれるかが問われなければならない。それは何か。反演技からである。

反演技とは何か。その反対に演技とは何か。時戸森則が嘘泣きをして、直美にその定義を語っている。演技とは嘘のなかから本当を紡ぎ出すことであり、その逆に反演技とは直美のように本当のことがわかっているのに嘘をついている、本当を嘘で覆い隠さねばならないことだと。ただその後にわかりやすく言えば、メビウスの輪だよと時戸森則は言っている。つまり、演技と反演技はいつでも反転し、往還するものであるということだ。直美がサクランボの柄を口の中で結ぼうとしていたシーンを思い起こそう。口の中では、食べることと発声が同居し、往還している。映画のなかで何度も出てくる食事やワインと、会話のシーン。そして、反演技の最たるものとは猫である。

猫の火葬をしている際、直美はペット葬儀屋を演じる永瀬正敏に、煙も出ずに消えていくのねと語るが、永瀬正敏は、死とは消えていくもののことではなく、あくまで時間と距離の問題だと語る。地上では決して交わることのない平行線も宇宙の果てでは交わっている、生と死もまた同様であると。ここでもまたメビウスの輪を許容する捻れた同一性が顔を見せている。ことあるごとに時戸森則はなにもかもが同じであると語っていたのを思い起こそう。そして、そう語っているのは空の領域である高層マンションの一室、雲のようとも形容されたことのある直美に向かってである。空=宇宙は捻れた同一性の領域を形成しているのだ。

高層マンションのコンセルジュを演じる柄本明が奇妙な質問を直美にしている。エレベーターには慣れましたかと。こう言い換えよう。空と地との往還には慣れましたかと。そして、地上では平行線としての電車が往復している。

階段での愛子は破水して、結婚相手ではない別の男の子を病院に行こうとはせずに、階段にいるままで出産しようとする。階段とはもちろん、空と地との間を結ぶもののことである。なぜ、なかなか愛子は階段から離れようとしなかったのか。ここで産まなければいけないと思ったのはなぜなのか。それは空に近い場所の方が、捻れた関係性の子が捻れたままに許容されるからではないか。メビウスの輪を許容する捻れた同一性の領域である空の方が。だが、最終的には地上である病院で出産する。同じように直美にインタビューされる時戸森則もまた最後に将来の夢について聞かれ、地に立つことだと語る。何が起きたのか。空と地の往還、死と生の往還がなければ、人が子をなしていくことはできないということではないのか。一度始まった人間関係は終わることなく、ずっと続いていくと時戸森則は直美に語り、今度は直美が出産した愛子に語る。それはまさにメビウスの輪としての往還は止むことはないということなのだ。

高層マンションの窓の前、空が映し出される画面で直美が背伸びをし、腕を交差させる。その意味は当然、空=宇宙における死と生が交差する同一性の領域を示している。

反演技、反映画はメビウスの輪のように即自としての演技そのもの、映画そのものと往還する。そうして映画がかたちづくられるようにしなければならない。そうしなければ、愛子の出産はあり得ないものとなってしまうだろう。死と生が往還するような事態を示すことはできないだろう。メビウスの輪を許容する捻れた同一性とはかくも危険な領域である。(サッド・ヴァケーションのラストもそうした同一性の危険な領域だった)

生きることは死と生の往還であり、映画はまさに反映画との往還を通じて、そうした生の有り様を示していかなければならないのだ。
古川智教

古川智教