まぬままおま

フィア・オブ・ミッシング・アウトのまぬままおまのレビュー・感想・評価

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「色々な人の、誰かといた時間」
「誰も知らない、今日を過ごす人たち」
「思い出にもならない、今日の出来事 そんなどこかの思い出に、夫はなって そして、私もなるわ」

そんな「声」のテープを残して自殺してしまったイ・ソン。彼女の声を聴いたユジンは、霊媒師のもとへ行き「再会」するため、深夜に車を走らせる。

本作は上述のように、「思い出にもならない、今日の出来事」を、だが確かに「誰かといた」時間を記録する。深夜の車内で交わされる何気ない会話。つかえ、口ごもり取るに足らない会話だが、大切な時間だ。そんな大切な時間を、深夜のパーキングエリアにいる人も、灯りが消えた室内で眠る人も過ごしている。「誰も知らない」けど確かに「今日を過ご」している。極度にドラマ化を排除した本作は、劇映画でありながらそんな時間を記録しているのである。

ただつかえ、口ごもる会話は、現実の私たちの会話そのものなのだが、何だか嘘のようにも思えてしまうのだ。それは映画なのだから、彼らは監督や物語の作為によってセリフを発し、カメラの前に現前しているからだ。街や車道の風景に映る人は「現実」の「大切な時間」を過ごしているのだと思う。けれど「大切な時間」であろうと記録する作為の中で、過ごすユジンらの時間は果たして「大切な時間」という真実を映しているのだろうか。

おそらくこの登場人物の語りが騙りになっているのは演出の作為なのだと思う。なぜならイ・ソンが残した「声」のテープには(韓国語でありその語として聞き取れはしないが)、つかえ、口ごもる発声を確認できないからだ。それはイ・ソンが明瞭に言葉を発せられる人物だという理由では決してない。そしておそらく彼女はそんな人物でもない。

だが「声」が嘘か本当かそんなことを判別することはもはや有効ではないかもしれない。なぜなら映画とは映像イメージと音声イメージの組み合わせでしかなく、映画に現れる人物が私たち観賞者の目の前に肉体を備えて現れて、言葉を発しているわけではないからだ。登場人物の「声」が私たちに届くためには、カメラやスクリーン、映写機やスピーカーというメディアが必要で、しかもそれはイメージでしかない。

映画はたかがイメージだ。されどイメージでもあり、真実が宿る時間があるのだ。
それは霊媒師の語りである。霊媒師は映画のために現前する登場人物である。そして霊媒術によってイ・ソンと交信するのだが、韓国語話者のイ・ソンの「声」を霊媒師が日本語で語るわけがない。しかし霊媒師が明瞭に語るその「声」には確かに真実が宿っているのだ。だからこそユジンは感動するし、私たちも感動を覚えるのだ。

河内彰監督の作品を連続してみると、語りが騙りになることを明瞭に意識しつつ、映画として現れるモノの真実を克明に記録しようとする作家性がみえてくる。そんな記録は「大切な時間」となり、その時間に浸ることで私たちは「思い出にもならない、今日の出来事」、だけど「誰かといた」時間のよさに気づけるはずなのである。

追記
本作で一番いいショットだと思うのは、イ・ソンの「声」を聴いて泣くユジンのお腹を捉えたものである。カット1は「声」を聴き泣き出しそうな横顔なのだが、カット2では泣いて震えているお腹のみがカメラに収められている。このとき、泣くということは顔のみの表情ではなく、身体での運動であることを改めて認識した。それは当たり前なのだが、日常に埋没しているため意識ができず、だからこそ映画によって真実として現れたことに私は感動した。