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女は女であるのkuuのレビュー・感想・評価

女は女である(1961年製作の映画)
3.9
『女は女である』
原題Une Femme est une Femme.
製作年1961年。
日本初公開1961年12月8日。
上映時間84分。
ジャン=リュック・ゴダールの長編第3作で、“登場人物が歌わないミュージカルコメディ”ちゅう発想に基づいて作られたラブコメディ。

キャバレーの踊り子アンジェラは一緒に暮らす恋人エミールに、今すぐに子どもが欲しいと云い出す。
エミールはそんな彼女に戸惑いを隠せない。
そこへ、アンジェラに想いを寄せる青年アルフレッドが現れ。。。

ゴダール監督の前作『小さな兵隊』に続いてアンナ・カリーナがヒロインを務め、『勝手にしやがれ』のジャン=ポール・ベルモンドがアルフレッド、『いとこ同士』のジャン=クロード・ブリアリがエミールを演じた。
『シェルブールの雨傘』などの名作曲家ミシェル・ルグランが音楽を担当。

"人は女に生まれるのではない、女になるのだ"
 ―シモーヌ・ ド・ボーヴォワールがおおよそ70年前に発したこの言葉は、今なおフェミニズムのもと合言葉的に口にされている。
この言葉は、セックスとジェンダーの相違を示しているとジュディス・バトラーは指摘している。
バトラーによれば、ジェンダーてのは徐々に獲得していったアイデンティティの一面だと示唆している。
また、ジェンダーに対する根本的な理解を潜在的にもたらしたのだという。
話はそれました🙇‍♂️。
確かに、ジェンダーに関する不定冠詞の断言『である』は、時に欺瞞や呪縛を内包しかねない。
『女は~』、『野郎は~』とか、男女二元論的な口調で何かを語ること自体に些か野暮な響きを含む2020年代の今。
『女は女である』はどのようにして我々に差し出されるんやろか。
今作品は、キャバレーで働く踊り子アンジェラが、 突然子供を欲するところから始まる。
同棲中の恋人であるエミールは乗り気では ない。
エミールは友人のアルフレッドや、ついには見知らぬ道行く男にまで『アンジェラの子供を作ってくれ』と頼む始末。
同じく妊娠を望む女が描かれたフランス映画 『ベティ・ブルー 愛と劇場の日々』(1986) の原題には、最も妊娠しやすいと云われている体温『37.2℃』がそのまま冠されている。
まさに〈女〉と 〈妊娠〉の映画と云えるけど、まず妊娠の問題よりも 〈性〉が先んじて描かれてた。
つまるところ、情熱的な恋愛と生々し い性行為が前景化されているが故に、妊娠のイメージは性的な熱を帯びていた。
しかし今作品やと、アンナ・カリーナが裸体を晒け出さないからだけでも、また、性行為そのものが省略されているからだけでもなく、
女が妊娠への欲望を明確に口にしていながらも、官能性が一切抜け落ちている。
単に『妊娠は妊娠である』とでも云わんばかりに、そこにエロティックなファンタスムが立ち上がりはしいひん。
作中、アンジェラが『出産の知識』の本を開くショットが明示するように、それが本から得る知識でしかないような現実味のなさがある。
ゴダール映画において頻出し、本作品にも登場する娼婦の存在は、性行為を資本主義的に商品化する効果をもたらす。
『性行為は性行為である』とでも云わんばかりに、娼婦とは対極にいるアンジェラ=天使が、性行為から切り離さ れる。
その意味でアンジェラはやはり『こんにちは、マリア 』( 「ゴダー ルのマリア」1984)の処女のまま子を孕んだマリーと双生児なんかな。
ゴダール的ミュージカルは、その形式において最も肝要な要素の一つである音楽を遊戯的に扱ってみせてる。
恣意的に中断される音楽は、現実のなかで自然に流れている音楽ではなく、 人為的に操作された音楽であることを明確にしてました。
また、原色が記号のように羅列されている。
アンジェラは赤、エミールは青、アルフレッドはグレー、もしくは茶と役ごとに基調色を与えられている彼らの姿は、舞台上でそれぞれの配色をあてがわれた役者さながらやった。
アルフレッドの右腕には、赤を割り振られたアンジェラと青を割り振られたエミールの中間にいるのを知らせるメルクマールかのような赤と青の二色が巻かれてさえいる。
こんなゴダールの映画の悪戯の数々は、そこが舞台であることを至るところで構築していく。
それは何気ない風景のなかにも及んでいた。
アパートの下にいるアンジェラとエミールのかたわらにいる抱き合う男女は、ほとんど動きを止めているようにそこにいるけど、もはやあからさまに 動きを止めている人間は
『いる』
ちゅうよりも、
『配置されている』って云った方が正しいんちゃうかな。
アンジェラが瞳の周りを黒く滲ませながら、噛んでしまった言葉をもう一度云い直せば、あらかじめ決められていた台詞の云い直しであるかのように聞こえる。
アパートの部屋でカットせずにパンで人物と人物を行き来するカメラの運動は、一つの舞台上を見つめる観客のまなざしを模倣したがっているようでもある。
アンジェラの女友達が見せるピアノを弾く動作と、銃を撃つ動作に合わせて聞こえる大袈裟な効果音も、その一例として挙げられるかな。
カメラ目線やさりげない語りかけを超えて、アンジェラとエミールが観客に向かってお芝居の前の 『挨拶』までしたように、ミュージカルの装いは日常的な生活の場面を舞台へと一変させてしまう。
また、星占いを気にし、Rの発音に手こずる、子供を求める『女』と、新聞を読みながら出される食事を待ち、箒を渡されれば掃除もせず楽器に見立てるかスポーツの身振りを始める、まだ子供が欲しくない『男』。。。
『映画は映画である』
と同時に
『映画は映画でしかない』
のであって、戯画化された紋切り型に近い『男』と『女』 は、巧緻な舞台上で『役』を演じているに過ぎない。
我々が生きるこの世界には、真の意味で
『女は女である』

『男は男である』 も成立しえないことを、この至高の笑劇を通じて逆説的に 実感する。
『男性・女性』(1966)の幕切れに、 “Féminin" (女性) の文字の一部が消えて“Fin" (終)へと変わったように、いずれ『女』の概念そのものが終焉する時代を予想する。
女と男を描き続けた、このあまりに偉大な映画作家に想いを馳せるかな。
表象と現実のあわいを往還する。
野郎の小生が『女は女である』を観る。
『女になった』わたは、そないして、『女』と『映画』を巡る隘路のさなかに巻き込まれ、 どうやらまだ結審に至ることはない。
なんかよー分からん感想になってしまい🙇‍♂️。
kuu

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