YAJ

林檎とポラロイドのYAJのネタバレレビュー・内容・結末

林檎とポラロイド(2020年製作の映画)
4.7

このレビューはネタバレを含みます

【記憶と記録】

 本国ギリシャのポスターは、原題のギリシア語で「Μήλα(りんご)」とある。日本のは少しヒネリが効いている。このフライヤがポラロイドの写真のフォルムを模しているのね。

 日本版にはフライヤがもう1種類あったりもする90分の小作品。日本では知名度もないギリシャ人監督のデビュー作にフライヤも2種類準備して、なかなかの力の入れよう。ヴェネチア映画祭で審査委員長のケイト・ブランシェットが見初めて、本作のエグゼクティブプロデューサーに名乗りを上げたことが話題にもなったのか。
 さらに今後もケイトの後押しを受け、2作目にしてハリウッド・デビューを果たすというから、この先楽しみな監督さんクリストス・ニク。ハリウッド的な予算が付いたからといって、本作のアナログでペーソス溢れる作風が乱されないことを切に願います。

 そんなデビュー作は、記憶にまつわるお話。
 突然、記憶を失う奇病が蔓延する世界を描くSF的なコメディ作品。主人公の男性が、ある日この奇病を患う。身元不明で迎えも来ない男は、回復プログラムに参加し、医師の指示に従い、毎日送られてくるカセットテープに吹き込まれたミッションをこなしていく、という筋書き。

 妙なプログラムを課される仮想世界のお話としては『Lobster』(15)あたりが思い出されるが、それよりコメディに振れているし、主人公を演じたアリス・セルベタリスの抑えた演技もあって、無声映画のような静かな可笑しさがある。近未来というより数々のアナログ器機の登場でノスタルジーも感じさせ、それこそJacques Tati的な、あるいは、どことなくアキ・カウリスマキ的な可笑しさもある。

 脚本はコロナ・パンデミック前に書き上げていたようだが、奇病が蔓延、身寄りがない孤独感など、ロックダウン、ステイホーム、外出自粛の世相に合致してか、“現代(いま)”の物語としても見ることができる妙味。

 そして、取り扱うテーマが「記憶」という、SFに限らず、ある意味、人類永遠のテーマである普遍性を持つ。
 医師から送られる指令はカセットテープで、音楽を聴くときはヴァイナルで再生と、時代は80年代以前のよう。そこには、デジタル全盛の現代社会への、ささやかなアンチテーゼも含まれているようで非常に興味深い。テクノロジーが進歩するほどに、記録(データ)が重視され、個人的で多彩な記憶が軽視されていないか?という訴えも汲み取ってもいいかもしれない。

 さて、主人公たちは回復プログラム「新しい自分」で、本当の自分を思い出せるのか?あるいは、記憶を書き換えられ別の自分として生まれ変わるのか?!
 自分って何? 記憶って何? 自分にとっての過去はなんだったの? それに意味はあったのかなかったのか? etc. etc…。。。 いろんなことに思いが飛ぶ、とっても示唆に富んだ作品。

 ケイト・ブランシェットの審美眼は、なかなかのものだ恐れ入った。



(ネタバレ含む)



 時代性を図らずも帯びてしまった本作。
 記憶を失った時に、IDを持参しておらず、誰からも捜索願いが出ていないと身元不明者として回復プログラムを課せられることになる世界。

 奇病への罹患、隔離ということも恐ろしいが、誰にも会わず、社会との接点が失われ、誰の記憶にも残らない存在になったら、「自分」をどのようにIdentifyしていけばよいのだろう? 自分とは、他者の記憶があってはじめて成り立つのか?それでいいのか?なんてことも考えさせられる。

 つい先日も、「人は二度死ぬ」という永六輔さんの言葉を思い出していたのも“記憶”に新しい。要は肉体の死と、人々の記憶から消えたときの死という考え方。

 突然、記憶を失くした主人公。だけど、リンゴを毎日食べるクセだけは残っていた。常にリンゴを買い求め、食卓で剥いてひたすら食べる。それって誰かに教えられたとかではなく、本人の嗜好、あるいは思考、なんならその人の本質ということか。

 一方、回復プログラムで与えられる指示は、新たな記憶を植え付けようとするもの。穿って見れば、ひとつの型に人を嵌めようとするものであり、なんなら、それを教育と言ってもいいのかもしれない。 

 プログラムをこなす過程で同プログラムに参加している女性と知り合う主人公。つまり、彼らは同じ記憶、いや「記録」を脳内メモリに書き込まれていくのだ。恋愛感情さえも・・・。

 冒頭の2種類のフライヤの話に戻るが、この「林檎」と「ポラロイド」は、この作品で問われる、忘れられない「記憶」と、後天的に身につけるものとも言える「記録」のメタファということになる。という点で、邦題も、なかなか言い得て妙かなとも思う。
 あるいは、そこまで言うのは説明過多で、監督が描きたかった、ヒトとして本当に大切なのは先天的な本能、人としての本質であり、「ポラロイド」=記録のほうはむしろない方が良いという意味で、原題は、ひと言「林檎」なのかもしれない。

 翻って、現実の我々が身に纏った後付けの知識、躾や体裁、それこそ社会での身の振り方や他人をはばかる忖度などは、それこそ奇妙なプログラムに植え付けられた、実は不要な情報かもしれないぞ!

 そんなところにまで思いが及ぶ、非常に奇妙で面白い作品だった。
YAJ

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