とうがらし

書かれた顔のとうがらしのネタバレレビュー・内容・結末

書かれた顔(1995年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

歌舞伎界随一の女形で人間国宝の5代目坂東玉三郎を追ったドキュメンタリー。
「ラ・パロマ」「ヘカテ」のダニエル・シュミット監督が、ところどころフィクションとモキュメンタリーを織り交ぜる。

演じるとは何か。
観るとは何か。
それらがスクリーンの中で語られる”女形”を通じて、私たちは、生きるとは何かを問い質される。

本作から得られる心の昂揚と沈潜は、ビクトル・エリセ監督の「マルメロの陽光」に匹敵する。
海外版DVDが存在するが、日本版はない。
これほどまでの作品が日本であまり知られていないのは、日本文化に大きな損失。
坂東玉三郎という偉大な芸術家がこの世に存在するうちに、ソフト化されることを望みたい。

本作から坂東玉三郎の珠玉のインタビューを抜粋。
「女より女っぽいという風に言って下さるのは、割と簡単な言葉なんだけれども、それをこう考えているんですね。
まあ、女が例えば、こう作品として、女性でもね…作品としている場合は、非常に女っぽい。
例えば、ガルボでもディートリヒでも、ハリウッドが女の作品として作り上げたところ、そこにやっぱり女の美しさを観れるというところ。
そこが、武原はんさんだって、杉村春子さんだって、自分が女であることを一回…一種封じ込めて。自分が女だということを、まず材料として横に置いて、それから自分の目が女をみて、で、自分の使えるものの女を、もう一回料理のように使うことができる独特の才能を持った女の人たちだと思っているんです。
(中略)
武原はん先生なんかは、肩幅が広くて、舞には似合わない体つきだった。それから、杉村春子先生は、若い時からお母さんばかりやって、私は美人じゃなかったってことを知ってた。
自分が不可能だということを、まず知ることによって、自分自身に客観的になれた。
僕がそういう意味で、男だったってことが自分自身、女をやる意味での客観視する基盤になったんだと思うんですね。
その次に、脚を悪くしたことで、動きに対して、敏感になれたということがあると思うんですね、そういう意味で。
それから、その次に、背が高すぎて、今までの日本の女性が、表現する女性よりも大きかった。
その自分の大きいということを、客観的に見て、自分で分解して料理して、欠点だったのを、長所にするというとおかしいけれども、プラスの面にしていくように、自分で悩んで考えて、それで作ったんですね。」

女性を観察して、自分を顧みて、女形を演じる。
女形は、男性と女性、自己と他者、現実と虚構を隔てるもの。
そこに一つの答えがあるわけもなく、一筋縄では行かない。
形而上学的に掴むようなもの。
つっかえて、つっかえて何度も言い換える。
なんとか紡ごうと、自分の考えることを声に出し、インタビューという形に定着させる。
”さん”呼びが、”先生”呼びに自然と変化する。
わずかな時間の空白に起こる差異に、坂東玉三郎の弛まぬ探求心と先人への尊敬の念を感じ取ることができる。


予告編
https://www.youtube.com/watch?v=XGTVGj8GEEo
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