湯っ子

ドライブ・マイ・カーの湯っ子のネタバレレビュー・内容・結末

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

この映画は、濱口監督版「桜桃の味」なのかな、と思った(濱口監督作品は昨日「寝ても覚めても」を観ただけだし、キアロスタミは「桜桃の味」と「ジグザグ道三部作」を観ただけのにわかですが)。
印象的なロングショット、車の中での魂のぶつかり合いのような対話、車を降りたときに何かステージが切り替わる感じ。メッセージとして心に残るのは、人生讃歌。
この映画が、今この時期に公開する意味があったと思うし、今この時期に映画館で観られてよかった。私は、わりと自分のことを楽観的だと思っていて、この映画を観終わった時にもそれを強く感じた。そう思わせてくれるこの映画のラストに感謝したい。

この映画には、たくさんの言語(手話を含む)が飛び交う。そのひとつひとつはあくまでも手段であって、心を伝えるのはかならずしも言語とは限らない。劇中劇で舞台演劇が描かれるが、全編を通してのセリフ回しも舞台演劇っぽいのは、村上春樹の観念的な小説世界をよく表現していると思う。
ドライバー役の三浦透子、若い女の子なのに渋くてハードボイルドな雰囲気が良い。岡田将生は自分の美しさをよく知っている嫌な奴の役が本当にうまい(「告白」、「悪人」でもそうだった)。
全編、ひんやりした空気が漂う作品なのに、通訳の男性と手話で出演している女優さんの夫婦の家に招かれるシーンだけがほっこりとあたたかく感じられて好きだった。

すごく良い映画なのに水をさすようだけど、主人公の妻がしていたことは、ハーヴェイ・ワインスタインがやっていたこととあまり変わらないような気がする。偉そうで脂ぎってて巨漢のおっさんがやるとセクハラで、美しさと知性を持ち合わせた美魔女がやるとかりそめの恋なのかな。暴力は使ってはいないけど、男性のセクハラを糾弾するには、女性だって自身がセクハラの加害者になってはいないか省みる必要もあると思うんだよな〜…と、例によって、映画の本質から離れたところが気になってしまった私でした。


2021年8月26日追記。
この映画のことをまだ考えている。
良い映画だと思う。なのに、いくつか感じた違和感が、時間が経つのと一緒に育ってしまっている。

美しくて淫乱な妻を持つというのは、あるひとつの、男の夢なのかもね。脚本のネタが降りてくるのも、どうやらセックスによって(男性によって)与えられるオーガズムらしいし。そもそも、そんな設定って、「女って男の何倍も気持ちいいらしいですぜ、だんな…ウヒヒ」みたいな発想の結果だったり、男根崇拝的な考えじゃないのかな?音の想像の中の女子高生も含めて、この映画の中の女たちは、オナニーを禁じられているみたいだね。まるで童話の「眠れる森の美女」みたいに。

みさきのお母さんのエピソードで出てきた別人格、っていうのも、できればやめて欲しかった。私は、ひとりの人間にいろんな面があるとは思っているんだけど、それを固有の名前を持った別人格というかたちではなく、「なんだか急にお母さんは子供みたいになる時があった」という表現のほうが好きだ。解離性同一障害について、いろんな意見があるとは思うけど、私は疑問を感じるところが大いにあるので。

私のわだかまりは、これらの女を「わけのわからない生き物」として描いていることへの違和感なのかもしれない。たとえそれが、美しい夢のような幻想だとしても。

それと、あとから思った良かった点をひとつ。家福の緑内障問題から、ドライバーをみさきに任せるというのは、昨今の高齢ドライバー問題にも通じるものがある。車にプライドを持ってる人たちは辛いだろうが、潮時というものがあることを受け入れないといけないよ、というメッセージになっているといいなと思う…それは意図しているのかどうかはわからないけど。
湯っ子

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